、支那文學を修めて、其の精髓を得たと云ふことが推測せらる、今日の學者は、歐洲の文學をもて囃すが、英文學や、獨逸文學で、其の精髓に達し得たことは、果して、小野篁の如きもの幾人あるか、ものゝ十人とあるか否やは、余輩の疑ふ所である。
宗祖大師の入唐は、嵯峨帝の時代より二代前の桓武帝の延暦二十三年でありますが、桓武帝の御宇は、二十四年であつて、次に即位せられた平城帝は、在位僅に四年であるから、大師の入唐以前の日本の時代と、其の後とは、大差なきことゝ思ふ、大師が入唐以前は、御遺告書にも見ゆる通り、御生年十五の時に、已に今日で申す普通教育を終り、入京の上大學に入りて、經史を修め、佛經を好まれたとの事であるが、中々教育の順序としては、整頓した制度である、御生年二十の時に、剃髮せられて、出家せられたが、其の前後の時には、御自身の告白がある、今日の語で云へば、青年時代にある、煩悶の時代である、殊に天才を有する青年の煩悶時代であるが、匹夫匹婦の煩悶は、飮食の爲めであり、凡庸の人の煩悶は、色欲又は功利の爲めであるが、大師の煩悶は、如何にせば、三乘五乘十二部經が、完全に理解出來るか、會得出來るか、佛法の要諦は
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