寺の毘盧舍那佛を建立せられた當時、行基などの頭には、此の苦心が、ほの見えて居る、平安朝の初期に至ると、奈良朝の中葉に比すれば、大分支那の文物が理解せられたやうで、思想風尚も大分了解せられた、嵯峨帝が、小野篁に對し、新に渡來した白居易の詩にある、登樓空望往來船といふを、試に、登樓遙望往來船と改められて、これに意見を下問せられたとき、篁は、白居易の書を未だ見ないに、聖作誠によろしいが、遙[#「遙」に白丸傍点]の字を空[#「空」に白丸傍点]と云ふ字にせられたらなほよろしからんと存ずる旨申上げたいたところ、嵯峨帝は御叡感あつたと云ふ話がある、なる程、遙[#「遙」に白丸傍点]の字より、空[#「空」に白丸傍点]の字の方が、此の塲合よろしい、これを、一瑣談と見れば、それまでゝあるが、私はこれを以て、當時の上流社會は、已に深く、支那文學の趣味を有して居り、又其の精髓まで味ひ得たと云ふことの證據であると思ふ、小野篁は元來學問嫌の人で、若いときは、遊獵騎射に耽けて、青年時代を徒消した人である、年がかなりにゆきてから、嵯峨帝の御感化で、學問を始めた人であるが、此の人にして斯の如しだ、當時の上流社會が、漸やく
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