が、其の實、支那の建築であり、且つ支那でも、最も氣宇廣大であつた、唐代の人々の精神が、現はれて居るから、かゝる感想を起させるものと私は思ふ。
要するに奈良朝の全期、又は、平安朝の初期は、唐服を着け、唐書を讀み、唐の詩文を屬し、唐の語を操るは、上流社會の誇りとした所であるから、苟も[#「苟も」は底本では「荀も」]、功名利達の志あるものは、これに務むるは、自然の情である、又、唐の文物が交通不便の當時であるにも拘はらず、比較的短き歳月を隔てゝ、日本に傳來し、波蕩風響して來るから、新を趁ひ、奇に馳せるは、自然の勢であり、隨つて、他の知らざる所を知り、他の有せざるものを有して、人に誇ることはせないまでも、自から恃みとするは、人の至情であつたらうと思はるゝ、又心を功名利達に絶ちて、身を宗教に委ねた人々でも、新奇の經が渡來するとか、未見の論が手に入ると、難解の點が多きに苦んだであらう、又宏才達識の人々でも、如何にして、新學の氣運に乘じ、新思想の潮流に掉して、國家民衆に貢献すべきかに迷ふたことゝ想像する、又一波一波と寄せ來る唐代の文明が、如何にせば我が國體と調和すべきか苦心したことゝ思ふ、聖武帝が東大
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