の名稱を、其の儘に用ひたものと私は確信致します、長安の興福寺には、唐の大宗の御製で、東晋の王羲之が書いたと云ふ、一寸聞くと妙に思ふ、かの大唐三藏聖教の序があつた所で、大宗が太穆皇后の追福の爲に、建立した寺で、其の聖教序は、今もなほ西安府學の文廟の後にある碑林にあるとの事である、尤も唐の興福寺は、最初弘福寺と云ふたが、高宗皇帝の時に、興福寺と改めたものであります、日本の興福寺は、其の改名後の名を採用したことは云ふまでもない、其他、唐僧道慈が建てた大安寺も、當時の長安の西明寺に規したものである、其他唐招提寺なども、唐代の建築に則り、唐より來朝した工匠の手に成つたことは言を待たない、私共が奈良で、古き時代の寺院を見ると、其の中に、一種の感想が、起つて來る、それは、日本人の手になつた事業、又は製作品に於て、見ることを得ないものであつて、外でもないが、堅牢壯大と云ふ感想で、英語で云へば、「ソリダリテイ」の考へである、これが建築の上に表現されて居るやうな氣がする、奈良朝の時代に成り、又は、奈良朝の時代のものに摸した寺院は、其の起原は、唐代にあり、又支那の大陸にあるのであるから、日本の土地に存在する
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