應して我が國の上流社會の思想風尚を、比較的短日月の間に、變化せしめたことは、奈良朝より、平安朝の初期に至つて、文明波及の大勢であつたと見える、當時の上流社會は、唐代の文明を模倣することを以て、如何に自から高とし、自から榮として、誇つたかは、今日の如く、日本が世界に誇るべき特種の文明を有する時代の吾々には、殆んど想像が出來ぬ程甚しかつたと思ふ、奈良の奠都と云ひ、平安の奠都と云ひ、寺院の建立と云ひ、官制の制定と云ひ、皆然りと云ふことは、出來ると、私は、信じます、かの法相の本山たる興福寺でありますが、藤原氏の建立した寺があることは、今更申し上ぐる要もありませぬが、最初は、今の山科にあり、山階寺と申しましたが、天武帝の時代に、大和の高市に移りまして、廐阪寺と申し、奈良の奠都と共に、奈良に移つて、興福寺と申すことになつた次第でありますが、其の寺號は、何故に、かく興福寺と云ふに至つたかと云ふことにつきては、私の寡聞によることと思ひますが、別に説明をした人がありませぬ、然し、法相宗の本山であつて、かく名稱を改めたは、當時、建立者たる藤原氏の人々の中には、慥に、唐の玄奘三藏が居つた三寺の隨一たる興福寺
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