舟に乘られて本國を出發せられたのであります。茲に諸君に御賢察を願ひたきことは、金剛智三藏が國王派遣の船舶に乘られたことを以て、恰も今日、歐米から東洋に派遣せらるゝ歐米諸國の宣教師乃至日本諸宗教各派の布教師などが、割引の賃金または無料で、官營また民營の鐵道船舶などの交通機關を利用すると同樣の見解を懷かざらんやう御願ひ申します。もしかゝる見解を抱かるれば、古代に於ける海陸の交通の性質を全然誤解して居るのであります。佛經の經典中、海に入りて寶を求む、即ち航海して異邦人と通商することを叙した經典に於ても見らるゝ如く、清貴の家に生れて操行清白の婆羅門または刹帝利種の人々は、國の瑞祥であり、社會の人々から見て、自分らよりも一層神に近く佛に近いものと信ぜられたから、天災地異の到底人力では如何とも致し難き災難に際しては神佛に近き人々の媒介によりて、災難を免れることが出來ると信じました古代では、航海または征戰の如き危險を冒す旅行には、必ず高行清貴の婆羅門の同伴を求むることになつて居りました。これは印度のみではありません。希臘羅馬は云ふまでもなく、日本支那の古代でも同樣であつたのです。將軍米准那の船に金剛智三藏が乘込まれたことは、米准那か又は國王の懇請に依つたもので、金剛智三藏が頼みこんだものでない事は申すまでもない。これによりて米准那の舟師の人々が、如何に心強く感じたかは蓋し想見に餘りあると想像せられます。要するに、此の遠洋航海に於ける將軍米准那の舟師に對しては、金剛智三藏は希臘羅馬の古代宗教の語を借りて云へば、クリマルク(Klimarque)の位置に居られたものであります。別に古代希臘の宗教の用語から援引しなくても、宗祖大師が大唐より歸朝の途中に於ける波切不動の勸請の話や、慈覺大師が同じく歸朝の途中山東沖で赤山神社の祈誓の話などを讀んだ方々は、當時の航海者は、密教の高僧に如何なる期待を持つて居たか判明する。また壬生狂言で源頼光が大江山の鬼退治に出掛くる一行の科を見た人は、かの狂言製作當時の京都人が、如何に密教の護持者に對し信頼の念が薄かつたかと知るでありませう。これに反して謠曲の船辨慶を御記憶の方は、「辨慶押しへだて、打物業にては叶ふまじと、珠數推もんで、東方降三世南方軍※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]利夜叉西方大威徳北方金剛夜叉明王」云々を御想起せらるれば、かの謠曲製作
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