ホならなかつた。また波斯灣の兩岸に存在する諸都市の船舶も、印度洋、南洋、支那海に來往する場合にも、同樣でありました。殊に印度の哲學宗教史專攻の人々にとりて注意せねばならぬことは、今日印度の知識階級の思想を支配して居る吠陀論師(※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ーダーンタ)の開祖シヤンカラーチヤリヤ(〔C,ankara_carya〕[#nは上ドット付き])の出生地はこの摩頼耶國であつて、其の活動の時代は、金剛智三藏の時代と略※[#二の字点、1−2−22]同時代であつたと云ふ事であります。
 金剛智三藏は、印度の大陸に生れ、大陸に活動したとは云へ、實際は摩頼耶と云ふ海國に生れ又は活動せられたのであるから、所謂海國男子であつたと思はれます。宗祖大師と同じく、瀕海の國で生れられて、海洋とは如何なるものか、海洋の中に於ける船舶内の生活とは如何なるものかは、蓋し幼時から充分會得實驗せられたことと思はれる。金剛智三藏の生家は、婆羅門族であつたか刹帝利族であつたか疑問としましても、所謂清貴の家であつたことは疑ひない。古代から印度に輩出した立法者、北方ではマヌ(Manu)ヤーヂユナ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]リキヤ(〔Ya_jn~avalkya〕)を始め、南方ではアーパスタンバ(〔A_pastamba〕)アーガステイヤ(〔A_gastya〕)等の法典には、婆羅門族または刹帝利族に對し、其の清貴の性質を失はざらしめんため、冠婚葬祭の四大禮は申すに及ばず、職業、交遊、服裝、住居、飮食等に至るまで、種々の制限を加へて居ります。殊に海外に出づることは禁じて、一旦海外に出たものは、歸國するも其の清貴の性質を失うてアーリヤ即ち正信の印度人たる權利はないものとせられた。祭政一致、宗教法律の區別なき時代にあつてはさもあるべきことと思ひますが、金剛智三藏時代の南海印度洋の諸國は、印度アーリヤ文化の光被せる地方であつて、古代印度の立法者の立法を解釋せる者の中では、此等の諸國に來往したりとて等しく、アーリヤ正信の人たることを失はないと云ふことで、此等の諸國を神州即ち印度アーリヤ地方の延長であると看做して居つたものです。だから、支那國に法を傳へんため、南印度の國王|捺羅僧伽補多跋摩《ナラシンハ、ポータ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン》王の舟師に將として支那に向はんとした將軍米准那の
前へ 次へ
全27ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
榊 亮三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング