の時代には、如何に日本の航海者は密教の護持者に對し信頼の念が篤かつたかを推察することが出來ませう。
 要するに、陸上の交通にしても、海上の交通にしても、少數のものだけの交通は長途の旅行や久しきに亙る航海など不可能で、大部隊、大商隊、大舟師、大艦隊を編成して交通または通商をせねばなりませぬ。故にこれを統率するものは、商人であると同時に、地理學者でなくてはならず、武人でなくてはならず、立法者でなくてはならず、同時に天文學者でなくてはならず、氣象學者、醫學者である上に、一大信仰を有して居る宗教家でなくてはなりませぬ。陸上では舊約全書にある出埃及記に見ゆるやうな摩西《モーゼス》の樣な人物でなくてはならず、普通世に流布するモハメツトの傳記に於て見るやうな、モハメツトのやうな人物でなくてはなりません。また佛本生經に見ゆるやうな商主即ち商隊を引率する菩薩のやうな人でなくてはなりませぬ。また史記に見えたるやうな帝舜のやうな人でなくてはなりませぬ。
 海上ではホーメロスの詩に見えて居る希臘軍の將帥のアガメムノーン、近世ではコロムブスの傳記、ラ・ベルイスの傳記、乃至カピテン・クツクの傳記に見えるやうな近代航海探檢者のやうなものでなくてはなりませぬ。まして西暦紀元七世紀の頃の印度洋・南洋の航海には、薩珊《サツサン》王朝は亡びて亞剌比亞人がバグダツドに奠めた首都の文化武威が、未だ舊波斯民族の信頼と心服とを贏ち得るに[#「贏ち得るに」は底本では「羸ち得るに」]至らず、波斯灣一帶の地方から印度の西海岸乃至亞剌比亞の東海岸に碁布羅列せる波斯民族の植民地は、海賊の占據する所となりしのみならず、印度の東海岸から南洋諸島を經由して支那の廣州に達する船舶の引率者が、天文地理乃至潮流・氣候等の知識も充分でなかつた事は、此の頃續々發見せらるゝ波斯亞剌比亞の航海者の圖に於て見らるゝ如く不完全極まるもので、大部分は冒險者の個人的勇氣と運勢とに任すより外なかつたのであります。されば、金剛智三藏にしても、金剛智三藏の乘られた艦隊の司令官將軍米准那にしても、印度より安全に支那に達するまでの間の冒險は、吾人の今日想像以上のものであつたことは疑ひない。もしこれを疑ふ人があるならば、私は此等の人々に對して、今日一切經の中に保存せられて居る法顯傳や、義淨三藏の南海寄歸内法傳や、大唐求法高僧傳などに見えて居る海洋交通の有樣を精
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