起すのであつた。クララは博士を抱き上げて濡れた顔を親切に拭いてやり、
「博士はもう今日は一滴も呑んではいけませんの――ね、約束しませうよ。博士は三文詩人や落第生みたいな手のつけられない呑んだくれぢやありませんわね……」
「ワ、ワシは手のつけられない呑んだくれぢやアよ」
博士は突然クララの膝から立ち上つて走り出し、アブサンの壜を抱えていきなりポン! と慌ただしげに栓を抜こうとするのであつた。
「およしなさい! それこそ動けなくなつてしまふわ。奥さんに叱られますよ!」
「ウー、違わあい! それは、嘘ぢやあよ」
博士はてれて恥しげに縮こまり乍らモヂモヂと言訳を呟き――そしてチラリと僕に流眄《ながしめ》を浴せて殆んど僕の死滅をも祈るかのやうな怖しい憎しみを強調してみせるのであつた。斯うして博士は僕を激しく憎み初めたのだ。
[#7字下げ]3[#「3」は中見出し]
森の酒場では、夜更けから夜明けへ移る不思議に間の抜けた懶い瞬間に、(それが毎日の習慣であつたが)一つのクライマックスが――あらゆる悦び、あらゆる悲しみ、あらゆる歎き、あらゆる苦しみの最大頂天《バラキシミテ》であるところの旋風のやうな狂乱が、湧き起るのであつた。怪しげなてあひ[#「てあひ」に傍点]によつて嵐の如く吹きあげられる一日の酔気が、恰も朦朧とした靄となつて部屋の四隅に彷徨ひ流れ、莫大な面積をもつ変な爛れがチクチクと酔ひ痴れた頭を刺す刻限になると、誰といふこともない、突然誰か先づ一人が立ち上るのだ。そして――
「おお、星の星よ、樹の樹、空の空、娘の中の娘であるクララよ! 拙者の魂はお前の可愛らしい足もとへ捧げられるために、いかばかり此の一日を清らかに用意されたことであらうか!……」
彼は出鱈目な言葉を敬々《うやうや》しく呟き終ると、やにわに彼の心臓へ手を差し入れて魂を掴み出さうとするのである。すると――魂がなくなつてゐる! 彼は慌てて胃嚢《いぶくろ》を探しはじめるのであつたが、次第に苛立たしげに狼狽を深めて自分の耳を引つ張つたり舌を出して撮んだりポケットを探したり靴を脱ぐとガタガタ揺さぶつたりしてゐるうちに、皆目見当を見失つてワア――落胆して口をパクパク言はせてゐるが、遂ひに猛然として気狂ひのやうに部屋一面を走り初め、空気の中から彼の魂を握《つか》み出さうとして激しく虚空を掴むのであつた。
「お、おれ
前へ
次へ
全16ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング