てられてゐた。森の入口はと言へば此は又広茫としたなだらかな草原で、見渡したところ八方に人々の棲む何の気配もないのだが、大いなる落日が森の奥へ消え落ちて東の平野から広い夜が這ひ上つてくると、急にフワフワと何処から現れるものともつかず実に可笑しな奴ばかりが森の酒場へ集つてくるのだ。煙草をふかし乍ら勿体ぶつて考へてばかりゐる三文詩人がゐるかと思ふと、見てゐたらいきなり彼の二つの耳から白くモクモクと煙を吹き出し嵐のやうな劇しい思索に耽りはぢめたのであつた! 凡そ常連の一人として一列一体に異体《えたい》の知れた奴はない。僕も昔は此の酒場の古い常連であつたのだが、神経衰弱に悩まされて以来《このかた》は、それも畢竟此等のてあひ[#「てあひ」に傍点]の醸し出す酒場の妖気に当てられた所為でもあらうかと思ひ、堅く禁酒を声明して森に足を向けなくなつた。――思へば迂闊にも忘れてゐたが、全て物事には珍重すべき「逆」といふものがあるのだ。ことに神変不可思議な神経衰弱の如き端倪すべからざる代物《しろもの》にあつては、逆こそ唯一の手段として何を措いても試みるべき性質のものではないか――
 森の酒場へ! さうだ! 森の酒場へ!
 僕は忽ち興奮して殆んど涙を流さんばかりに感激し乍ら騒しく博士の手を握り、僕の頭に揺影した新鮮な映像に就て説明した。そして僕達は忽ち已に病魔を征服したもののやうに有頂天となつてしまひ、あの広茫とした森の酒場へ! 唱歌を高らかに歌ひながら行進したのであつた。――その日から、昼は昼、夜は夜で、明け暮れ博士は森の酒場へ入り浸り終日デレデレと酔ひ痴れずには夜の明けない尊きバッカスの下僕となつたのであつた。
 ――おお、愛しい森の娘クララよ!
 それがこの「森の酒場」の陽気な行事である通りに、博士も亦大いなる壺に水を満し其れにしたたかキュムメルを加へて妙なる青白き液体となし、酒場の娘クララの青春を讃へ乍ら我が魂を呑むが如くに呑みほす途端に、位置に多少の錯覧を起して何のためらう所もなくザッと全身に浴びて了ふのであつた。「う、ぶるぶるぶるう……」と呻き乍ら忽ち博士は博士独特の方法によつて逆立ちし背や腹へ廻つた液体を排出しやうとするのだが、それらは已に全く深く浸みついて動きがとれないものだからワッ! と叫んで七転八倒の活躍をしはぢめ、挙句の果に力も尽きてグッタリ其処らへ倒れたまま劇しく痙攣を
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