霓博士の廃頽
坂口安吾

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)甃《いしだたみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|米《メートル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ムニャ/\
−−

[#7字下げ]1[#「1」は中見出し]

 星のキラキラとした夜更けのことで、大通りの睡り耽つたプラタナの陰には最早すつかり濡れてしまつた街燈が、硝子の箱にタラタラと綺麗な滴を流してゐたが、――シルクハットを阿弥陀に被り僕の腕に縋り乍らフラフラと千鳥足で泳いでゐた霓博士は、突然物凄い顔をして僕を邪慳に突き飛ばした。
「お前はもう帰れ!」
「しかし、だつて、先生はうまく歩けないぢやありませんか――」
「帰らんと、落第させるぞ!」
「それあ、ひどい!」
「こいつ――」
 霓博士はいきなりグヮン! と僕の膝小僧を蹴飛ばした。その途端に、僕よりも博士の方がデングリ返つて逆立ちを打ちシルクハットを甃《いしだたみ》の上へ叩き落してしまつたが、四つん這ひに手をついて其れを拾ふ瞬間にも股の陰から僕の隙を鋭くヂイッと窺ひ、ヤッ! と帽子を頭へ載せて立ち上る途端に僕の脛をも一度ドカン! と蹴つ飛ばした。「ワア痛い!」「ウー、いい気味ぢやアよ!」と言ひ捨てて、博士は暗闇の奥底へ蹌踉とした影法師を蹣跚《よろめ》かせ乍らだんだん消えて行つてしまつた。そこで僕も息を殺し、プラタナの深い繁みが落してゐる暗闇ばかり縫ふやうにして博士の跡をつけはぢめた……が、博士はものの一町も歩かぬうちに、お屋敷街の静かな通りへ曲つてゆく四つ角の処で急にヒラリと身を隠し、塀の陰からソッと首だけ突き延して疑り深く振り返つたが、忽ち僕を発見して――手当り次第に石を拾ふと僕をめがけて盲滅法に発射した。
「WAWAWAAAH! 実に憎むべき悪魔ぢやアよ……」
 斯様に博士は怒りに燃えた呟きを捨て、闘志満々として握り拳を打ち振り乍ら塀の陰から進み出たが、突然ブルン! と昆虫の羽唸りに似た鈍い音を夜空に残し睡つた街上に白い真空の一文字を引いたかと思ふと、僕の胸倉へ発止とばかり
次へ
全16ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング