のことに就てはふれてゐない。そして僕の考へによれば、人間の家庭性とか個性といふものに就て否定にせよ肯定にせよ誠実なる考察と結論を欠き、いきなり血の一様性や世界聯邦論へ構想を進めることは一種の暴挙であることを附言しなければならぬ。
 部落的、藩民的、国家的な対立感情を取除くことによつて全ての対立感情が失はれるかといへば、決してさうは参らぬ。ここに個人的対立感情があつて、この感情は文化の低さに由来するどころか、むしろ文化の高さと共に激化せられる如き性質を示してゐる。即ち、原始社会に於てはむしろ個人的対立感情は低いもので、男女関係はルーズであり、夫婦とか家庭といふものもハッキリしてをらず、嫉妬なども明確ではない。文化の高まるにつれて、家庭の姿は明確となり、嫉妬だの対立競争意識といふものは次第にむしろ尖鋭の度を示してゐるのである。
 我々小説家が千年一日の如く男女関係に就て筆を弄し、軍人だの道学先生から柔弱男子などと罵られてゐるのも、人生の問題は根本に於て個人に帰し、個人的対立の解決なくして人生の解決は有り得ないといふ厳たる人生の実相から眼を転ずることが出来ないからに外ならぬ。
 社会主義でも共産主義でも世界聯邦論でも何でも構はぬ。社会機構の革命は一日にして行はれるが、人間の変革はさうは行かない。遠くギリシャに於て確立の一歩を踏みだした人間性といふものが今日も尚殆ど変革を示してをらず、進歩の跡も見られない。社会組織の革命によつて我々がどういふ制服を着るにしても、人間性は変化せず、人間性に於て変りのない限り、人生の真実の幸福は決して社会組織や制服から生みだされるものではないのである。自由といつても惚れる自由もあれば、それを拒否する自由もある。平等などと一口に言ふが、個といふ最後の垣に於て人は絶対に平等たり得ぬものである。賢愚、美醜、壮健な肉体もあれば病弱もあり、強情な性癖もあれば触れれば傷つく精神もあるのだ。憎しみもあれば怒りもある。軽蔑もあれば嫉妬もある。人間といふものを机上にのせて、如何なる方程式だの公理によつて加減乗除してみても、計算によつて答がでてくるシロモノではないのだ。しかも人生の日常の喜怒哀楽といふものは此処に存してゐるのであつて、社会機構といふものは仮の棲家にすぎず、ふるさとは人間性の中にある。之なくして人間に生活はない。
 ひところ友愛結婚などといふことが言
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