惨なる実体と同じ程度に文学の神様の悲痛極まる正体であつた。
 之に比べれば咢堂の眼は衆議院の議席からも国民の常識からもハミだしてをり、思考の根が人性そのものに根ざしてゐることを認めざるを得ぬ。彼は政治の神様と言はれてゐるが、文学の神様よりはよほど人間的であり、いはば文学的であつたのである。
 文化の低いほど人は狭い垣を持つ。国民は国民同志対立し、より文化の低い藩民は藩民同志対立し、もつと文化が低くなると部落と部落が対立すると咢堂は言ふ。かかる対立感情が文化の低さのみを原因とするかどうかは問題だが、之は咢堂の肉体的な言葉であり、いはば自らを投げだして対決をもとめてゐる文学的な一態度だ。日本人だのアメリカ人だのと区別を立てる必要もなく、誰の血だなどと言ふ必要もない。まもるに値ひする血など有る筈がないのだ、と放言する咢堂に至つては、いささか悪魔の門を潜つてきた凄味を漂はしてゐるのであるが、僕の記憶に間違ひがなければ、咢堂夫人はイギリス人であつた筈で、かうなると意味が違ふ。なぜなら純粋に日本人であり、日本人の女房をもち、日本人の娘があるとなかなかかうは言へないものだ。理論よりも本能の方が一応は強力だからである。この本能を潰して正論を掴みだすには確かに悪魔的な眼が必要で、女房や娘を人身御供にあげるくらゐの決意がないと言ひきれない。咢堂は悪魔の助力なしに之を言ひきれる立場にゐるのであるが、それにしても、この言葉が人間の一大弱点を道破してをり、日本将来の一大問題を提出してゐるものであることは争へない。共産主義者などは徒らに枝葉の空論をふりまく前に、先づこの人性の根本的な実相に就て問題を展開する必要があつた筈だ。咢堂の世界聯邦論がこの根柢から発展してゐることは、一つの思想の重量であつて、日本の政治家にこれだけの重量ある思想の持主はまづないだらう。この重量は人間性に就ての洞察探求から生れるもので、彼の思想が文学的であるのも、この為だ。
 けれども、ここに問題は、部落的、藩民的、国民的限定を難じ血の一様性を説く咢堂の眼が、更により通俗的な小限定、即ち「家庭」の限定に差向けられてゐないのは何故であらうか。
 家庭は人間生活の永遠絶対の様式であるか。男女は夫婦でなければならぬか。国家や部落の対立感情が文化の低さを意味するならば、家庭の構成や家庭的感情も文化の低さを意味しないか。咢堂はこれら
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング