夢であることの虚しさ。彼女はそれに気付くとき、心静かな日は安堵し、心に波の騒ぐ日は狂気の如く現実を憎んだ。
安川の親しい友に遠山といふ男があつた。安川は彼をまことの悪党とよんだ。それは一種の愛称だつた。己れを愛すことのほかには誰を愛しもできない男。己れに向ける厳しさのために、彼は孤独を得たのであつた。自己のみ一人の人間で、他人は物にすぎなかつた。さういふ意味の冷血を意味するところの悪党だつた。
遠山の苛烈な姿が松江の苛酷な現実へ影絵のやうにやがて移り住んできた。日毎々々の松江の昼夢に彼女自身も過程に気付かぬ変化がきて、古い男のそらごとのやうな幻想は消え、遠山を描く秘密の夢が育つのだつた。松江はそれを恋であるとは思はなかつた。なぜなら恋はやさしいものだ。さうして恋は清らかなものだ。百合や薔薇がふさはしいのだ。彼女はそれを信じてゐた。それだのに自分の描く二人の夢はみだらで汚く息がつまつた。肉体だけがのたうちまはつた。それを思ふと松江は無性に口惜しくなるのだ。盗まれた、何もかも、乙女も生活も金も恋も清らかさも。それをみんなあの男安川がしたのであつた。安川は悪者悪党悪魔だつた。あの悪党がわ
前へ
次へ
全40ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング