うか! それが性的な衝動によるなら、それはそれでいいぢやないか! 妹のコケティッシュな裸身がくね/\と否応なしに私の脳裡に蠢めきまはつてゐるのである。然しそれが特に不快でもなかつたのだ。
 私達は然し長平の下宿の方へ歩いてゐた。下宿の前へ辿りつくと、鈍重な足の運びでひきずるやうに歩きながら、背をまるめ黙りこくつて歩いてゐた長平が、ふと自分の部屋をぼんやり見上げて呟いてゐた。「ゐるかな? ゐないと思ふが……」と。その予感は的中した。私がむしろホッと重荷を下したことには、まぎれもなく長平の部屋のどこにも妹はゐなかつた。書き残したものもなかつた。私は暫く妹に会はずにゐたい思ひがしたのだ。妹の魂が汚れてゐるなら、魂の汚れと同じ線まで肉体の汚れることを望む思ひがむしろ私の心にあつた。
 ――お前もひとたび家庭を逃げる人になるなら、行きつくところまで行きついてみるがいいのだ。中途半端な娘気質の気位はむしろ御免だ。そんなお前を見ることは、救はれない私自身の血を見るやうに私に苦痛だ。淫売婦の汚れきつた肉体になつて、肉は膿をもちズダ/\にさけて帰つてきても私は決してお前を叱りはしないだらう。むしろ私は一息ホッとつくかも知れぬ。私達ははじめて兄妹になつたのだぜ、と。しみじみと始めて話を交さうぢやないか、と。
 私は心にそんなことを呟いてゐた。とはいへそれも感傷的な、自暴自棄な、要するに若干の悲愴を気取る甘さのせいに他ならないと言はれても、私はたしかに一応は返す言葉がなかつたのである。
 それにつけてもその宵は私達の遺伝因子が上野駅へ着く筈であつた。因子上京の報ひとたび伝はるや、因子自ら雄姿の片鱗だに現はさぬうち生殖細胞の混乱たるや件《くだん》の如し。私は然し冷酷なまで冷静だつた。

   その三 少女予言者を訪れて

 五月十一日――と、改めて言ひだすまでのことはなく、これは前章と同じ日で、即ち妹の失踪の翌日、私が長平に呼び起されて妹の不可解な行動を確かめるために彼の下宿へ赴いたその当日、この夜は父が上京の筈であつた。
 妹の行動が私に大きな衝撃を与へたといふ言ひ方は全然当らないが、然し一人にもなりかねた私は、恐らく同じ思ひの長平と油の乗らない沈黙がちな対坐にすつかりくたびれてしまひながらも、思ひ切つて立ち上る勇気がなかつた。正午近い時刻になつて昼食のために肩を並べて外出した二人が一旦アトリヱへ立ち寄つてみると、置き残してきた珍客兄妹に異常はなく、思ひがけないことには、秋子とあぐりとこれも同じ画学生の巨勢《こせ》きそのといふ有閑婦人の三人が我物顔にアトリヱを占領してゐた。
 巨勢きその(木曾野と書くのが本当で、父親の木曾の役人時代に生れたのだと言ふことである)は三十五六の富裕な未亡人で、金と行動が至極自由になるところから、自然十数名の画学生から党主的待遇を受けてゐたが、その割合に我無者羅でなく、ある優しさと弱々しさのつきまとふのが、がつちりした娘子軍に利用されながらも、先頭に立つた家鴨のやうな愚劣な形になることがなく、深さある人柄を感じさせるのであつた。
 ところが或る日、女画学生のズラリと並居る面前で、私は突然この弱々しい婦人から誰憚らぬ高声で極めて単刀直入に普通決して人前で言ふべきではない話を受けた。言ふまでもなく木曾野は東京に住んでゐたが、この日は何かの都合があつて静浦の別荘へ泊らなければならないと言ふのだが、汽車道の長さもやりきれないし別荘の寂しさも堪らないから、四五日滞在の心算で私に一緒に来てくれないかと言ふのであつた。
「貴方お一人だけ来ていただきたいのです。大勢来ていただいてもおもてなしも出来ませんし、陽気に騒ぐでもなく、語りながらブラ/\一緒に海岸を歩いて下さる方が欲しいんですわ。伊豆の西海岸は余り知られてゐませんけど、湘南の海岸に比べたら、もつと本格的な堂々とした風景ですわ。額縁の中の絵のやうに調《とと》のひすぎたきらひはありますけど」
 私は衆人看視の中で、なんの言葉をかざるでもなくいきなり真向から右様の招待を受けたものだが、だいたい私はこの日までこの人と個人的な対談をしたことすらなかつた。呆気にとられたのは私一人のことではなく、並ゐる婦人の表情には一様に侮蔑をふくんだ驚愕がおし流されたほどであつた。然し木曾野は人々の驚愕や侮蔑が想像すらできないやうに無関心だつた。
「江の浦から水津《みと》のあたり折があつたら散歩したいと思ふんですけど、歩いたことすらないんですの、一緒に来ていただけたら、あたし歩きますわ、一晩でも。砂浜がありませんの。それが生憎ですけど、海岸から手にとるやうな近いところで大謀網《だいぼうあみ》をしめてたりしてましてよ」
 相変らずザックバランに淡々と言ひまくるこの人の顔付には陰がなかつた。驚愕や侮辱の情が戸惑ひするほかに術《すべ》を失つた人々は、後々この出来事を思ひ出して興味的な話題にする根気も手掛りもないほどだつた。私は極めて因習的な羞恥感から反射的に理由のない躊躇を覚え一も二もなく招待に応ずることのできないむねを答へたのだが、むしろ私の羞恥感がこの時いかほど不自然に見え、私の心労が醜怪に見え、私自身の立場のみが見窄らしく感じられたか知れなかつた。
 さういふことがあつてから数ヶ月後、品川駅前の広場をたつた一人歩いてゐるこの人に出会つた。もとよりアトリヱでは屡々顔を合はしてゐたが、二人きりで出会ふ折はなかつたのだ。私達はお茶をのんだ。
「ナポレオンは悪性の頑癬に悩まされてゐたんですつて? 頑癬の痒さで眠れない夜寝床の上をのたうちながら大遠征を計画したんですつて? 頑癬のひろがるたびに版図も拡大したんですつての? ほんとでせうか?」
「さういふ暗合もあつたかも知れませんね」
 と私は答へたが、婦人にはチョコレートを語らしめよといふチエホフの意見の通り、この有閑未亡人のチョコレートに私は深く耳を傾けもしなかつたが、夫人は厭味のない爽快な語調で、歯切れよく語りつづけた。
「ナポレオンはインポテンツだつたんですつて? ほんとでせうかしら?」
「然し子供があるぢやありませんか?」
「ワイマールでゲーテに会つたんですつてね。そのころゲーテは六十過ぎのお爺さんでワイマールの宰相なんですつて。部屋へ這入つてきたゲーテを見ると、ナポレオンは突然これは人物だつて叫んださうですわ」
「さうですか」
「でもそんな直感はナポレオンの偉さの証明にはなりませんわね。子供のやうに独断的ぢやありませんの? まるでだだつ子のやうに」
「さうかも知れません」
「スタール夫人はナポレオンを攻撃しすぎて巴里退去を命ぜられたんですつてね。スタール夫人の印象によると、ナポレオンは暴君とも違ふんですつて。優しくはないけど残酷でもなく誰に比べやうもない人物で、親しみも同感も受けないやうな人なんですつて、此方の感情も全然先方へ通じない人、ナポレオンに会つてゐると、人間を一つの物として見てゐるやうで少しも同類と思つてゐないといふことが、圧迫する力となつて感じられたさうですわ。社交や教育で涵養された品性とは何の関係もない強い力に打たれるのが普通で、思想や意志の力とは別な、たとへば人類に対して一片の好感の閃めきもまぢつてゐない人柄から、辛辣な諷刺皮肉を与へられずにゐられなかつたさうですわ」
「攻撃よりも感激にちかい印象ぢやありませんか?」
「あたしの言ひ方も悪いんですけど。(彼女は笑つた)あたしが感激してるんですわ。スタール夫人て、バンヂャマン・コンスタンを愛人にしてた人ですわね。アドルフの作者とナポレオン……でも、さうですわね、あたしもさう思ふんですの、スタール夫人はナポレオンに感動したに相違ありませんわ。深い理由はないんですけど、ただ女の直感だけで思ふんですわ。水のやうなナポレオンに恋したつて始まりませんもの。悧巧な女の感動は愛慕になるより反撥になりがちですわね。ナポレオンが気の利いたダンディなら反撥を愛の方向に変えさせるのは造作もないことなんですわ。そんなナポレオンならつまらない男でせうけど、ほんとの愛人は恋愛の中にゐやしませんわ。恋愛なんて愚劣で退屈ぢやありませんの。拗ねてみる、憎んでみる、愛さうとしてみる、とつまらなく苛々する、鋳型の中で馴合ひの芝居に疲れてゐるやうなものですわ。あたし愛さうともしないで、いきなり男を憎んでみたいと思ふことがありますわ。憎みぬいてみたいんですの。どこまで憎みぬかせるか、反撥し通せるか、女には自分の力がないんですもの、男の力男の冷酷さが憎み通させてくれるほかに仕方がないのですわ。ナポレオンは偉大ですわね。アドルフの作者と馴合ひの鋳型の中で人並みの感動だけは得やうとしたつて、スタール夫人は面白くも可笑しくもなかつたのぢやありませんの? みんなあたしの空想なんです」
 私達は通りへでた。
 私は木曾野に冷笑されてゐるやうに自らの立場を考へてみなければならないのかと思ひつかずにゐられなかつた。然し木曾野にそんな素振りはないばかりか、自らの言葉に対して気おくれとかうしろめたさを微塵も感じぬ颯爽とした清潔さが、恰も初々しい処女のやうに私の印象に残るのであつた。私は更に考へた。これはこの人のチョコレートであらうか? それともチエホフをして私の席にあらしめたなら、この婦人に向つてすら「いいえ、ナポレオンを語つてはいけません。貴女の大好きなチョコレートに就いて語りなさい」と言ふであらうか?
 私達は電車通りで左右に別れた。私と木曾野との交渉といへば後にも先にもただそれだけで、今語り得たやうにしか語ることができないのだ。それ以上に語るためには凡そ手掛りがないのであつた。さりとて私の印象の中に神秘的な影を宿して残るといつては余りにことが大袈裟すぎる。ありていを語れば、この婦人の人柄が甚だ私の好感に訴へるところがあるとはいへ、今語り得た以上にまで印象をまとめ、その気質や性格を突きとめる誠実なる情熱が私にとつては全く必要なものではなかつたのだ。

 私はアトリヱの中に秋子、あぐり、木曾野等三名の姿を認め、明らかに当惑せずにゐられなかつた。こんな時に貴方達の顔なんて思ひだしたくもなかつたのにと私の心は呟いてゐたが、然し秋子を見出したことの名状すべからざる感動が、私を激しく混乱させ、それが私の当惑を深かめさせもしてゐたのだ。
「僕は帰へらう」と長平は尻込みしながら沈んだ声で呟いた。私はあらはに狼狽して激しい視線でたしなめるやうに長平を凝視めながら、「もう暫く。せめて夜がくるときまで一緒にゐてくれ」と哀願せずにゐられなかつた。確たる理由はないのである。宿酔の朝に全く同じ神経的な恐怖であつて、別れることがたまらなかつた。
「別室でお話したいことがあるのですけど」
 女の群から木曾野が一人離れてきて私に言つた。二人は私の部屋へ這入つた。
「秋子さんのことなんですけど。秋子さんの姙娠のこと御存知でせうか? 御両親に隠し通せることでもありませんし、男が悪いんですの。くだらない因縁をつけてきてうるさいこともあるんですけど、そんなこと一々取り合ふ必要はありませんし、たいしたことぢやありませんわね。さう言つてしまへば別段理由はなくなるわけですけど、色々とうるさいものですから、赤ちやんの生れるまで静浦の別荘へ秋子さんをお預りしやうと思ふんですのよ。生れた赤ちやん誰かの子供といふことにして届けてしまへば八方無難で、何より事がおだやかに済みますわね。栗谷川さんはどうお考へになりますでせうか?」
「さうですね。それが何より無難でせうけど……」
 私は煮えきらなく呟いたが、なぜなら私の脳裡には一つの疑念が動きだしてきたからであつた。この婦人は私がまるで秋子の愛人であるかのやうに言つてゐる。まるで私に秋子の支配権があるかのやうにすら言つてゐるのだ。それを疑ぐらずに軽卒な返事を答へていいのだらうか? さういふ疑念もさることながらこの婦人の例の如く淡々とした歯切れのよい語調の裏には、最も繊細な叡智によつて包まれた微妙な揶揄が、私の野暮な疑念に向つて已にその複雑な伏線
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