気持にもなれなかつた。一目ぢろりと見流しただけで眼をそむけたい思ひすらした。私は部屋へ戻つて急に寝床の中へもぐりこんだ。男の愚劣な感傷が私のいい加減なポーズを揶揄するやうに思はれもし、いつぱし自分の軌道に乗つて足を踏みしめてゐるつもりのものが、砂上に柱をたてたも同然浅間敷いぐらつき方が分つたやうな惨めな自嘲がわきおこらうとするのであつた。
「てめえが泥棒にはいつた方が俺はよつぽど御愉快だ。馬鹿野郎!」私は恐らくてれかくしから金切声で怒鳴つたりした。
――そいつが身を切られるやうにつらいのだ。いつぱし生き生きとした自分の生き方をしてゐるやうな思ひあがつた自己満足の幽霊のやうな足のない恰好を見るがいい。それあ生きてゐる人間のすることぢやないんだぜ。死と馴れあひのあんまり惨めな人間の姿ぢやないか。死を避けられない人間の諦観からきたカラクリの一つなのだ。人間に死があるための、もはや殆んど本能と化した一つの愚劣な知的活動のたぐひであらう。そんな風にまでしてせめて生きやうといふのだが、そんな風にまで形の変つた死の姿なのだ。生きる限り生きることにひけめ[#「ひけめ」に傍点]を感じ、存在そのものに敗北しつづけてゐるやうな、その惨めな生き方を俺は一片《ひときれ》もしたくない、見たくないのだ。……
熱病のためにうはづつたかのマニヤの姿に見えもしやう。私はマニヤで結構なのだ。余りにも観念的なと言はれもしやう。それも亦望むところだ。よしんばそれが愚かな遊戯であるにしても、それ自らが全一の白熱をかたどり退きも怖れもならぬ上からは、観念の馬に打ちまたがり懐疑の鎧に身をかためたラ・マンチャの紳士に他ならぬ私の姿であれ、私は風車に打ちかかる自らの姿に向つてそれが全ての凝視を送り、敢て瞬きもすることはならない。
私は「家庭」に於て、殊に余りにも安易に手なづけられ、張り渡された死のカラクリを嗅ぎつけずにゐられない。それは恰も、人はかうして死んで行くのだと、蒼ざめた小生意気な死神の奴がどつちを向いてもぐるりと四囲をとりまいてゐる。さういふものを家庭に嗅がずにゐられないのだ。しかも又なんと脱けだしがたい泥沼。私は然したいへん筆をすべらしてしまつた。私は物語りに立ちもどらう。
私の母は私が小学校へ通ふうち死んでしまつた。子供が二人、私と、五つ違ひの妹がのこされた。父は再婚しなかつた。のこされた二人の子供が気の毒でといふ月並な言ひぐさなぞは恐らく用ひもしなからう、彼はただ徹頭徹尾遊蕩に暮した。私の記憶によれば、この父の代ですらなほ家運隆盛な一時期もあつて、ひところ四五十台の機械|機《ばた》を動かした頃なぞが目に浮かぶ。その頃は恐らく全町の機屋でも屈指の盛運にあつたのだらう。中学を卒へてから私は遊学のため上京叔父のもとへころがりこんだが、已にそのころ満身創痍の態にあつた傷心の叔父に懇望され、夏は山、冬は南海へといふ式にまことに道行のやうな愚劣な旅をつづけねばならず、帰省する折がなかつた。ひと春妹の縁談がおこり帰省すると、家に三台の機《はた》がのこされてゐるばかりであつた。三台といへば、わずかに一人の女工によつて動かすだけの数である。その機が妹の結婚によつて又何台か数がふえたといふのだが、いはば妹は体良く身売りをしたのであらう。当時の父は三条の子供のやうな若い芸者にべた惚れのとんと深草の少将で、後日判明した次第によれば、妹の婿は当時父と最も昵懇連日座敷を同うした遊び仲間であつたといふ。然し父とは年齢の離れた三十前後の若者で、重なる遊蕩によつて独特の人品を具えた田舎紳士であつた。友情に軽薄な父であるが、この若者には恰も動物が動物に寄せるあの一種嗅感的関係に彷彿とした不思議な親愛と敬意を払つてゐたのであつた。
妹は半年足らずのうちに離婚した。性病に感染し不具者になるところは免れたが、父がとんと田舎紳士の腹心で、癪にさはるほど言はでもの弁護をする、妹の泣言には一々向つ腹を立ててしまふ、悪徳の正義に就て情熱の最後の滴まで傾注した訓話を述べるといふ始末で、あげくの果には婿と手をとつて遊興に出陣する態たらくに居堪《いたたま》らず、妹は婚家を、同時に故里を、父を、逃げて上京した。叔父のもとへころがりこんできたのだつた。生憎乍ら兄のもとへころがりこんだ身を寄せたと書くべき自信も気取りも持てない。叔父の奔走によつて離婚となり、爾来私と共にこのアトリヱに棲むこととなつた。
さて新らたな出来事は私が蕗子を上野駅へ見送つたその夕方からはじまる。昨日の約束もあることで、その日は三千代を訪れるつもりであつたが、とりあへず上野駅からアトリヱへ廻り、疲れた身体を休めるために豚のやうに寝床へもぐつた。長い熟睡が訪れ、目覚めた頃にはもはや黄昏が迫つてゐた。まもなく二人の見知らぬ訪客が現れたのだ。一人は四十前後の男、その連れは三十七八の女で、見るからに北国の暗い風土を彷彿たらしめてゐた。男は冗長な田舎言葉で、越後亀田在の栃倉重吉と名乗り、連れは妹の八重であると名乗りをあげた。
「旦那に一目会ひたいですが」
と、男の浅黒い顔に突然赤味がさしたかと思はれた表情の変化のうちに、どうやら突きつめた何かを見せて私に言つた。
「父! 父はゐない」
「さうでない」栃倉重吉は焦燥に身悶えるかに気色ばんだ。彼は妹を指しながらまるで咒文《じゆもん》を呟くやうに早口に言ひだした。「旦那に会はねばこれが死んでしまふかもしれないのです。三日といふもの旦那を探してゐたのです。芹沢さんが教へてくれないのです」
「父は五泉にゐないのですか?」
「十日も前に東京へ来てゐるのに! 立つ晩に八重に別れも言ひに来たし、停車場へ送りもしたのだ。家は空家も同然、機場はガランとして一台の機もなし、人が寝るに一枚の夜具もあるかどうか棲める場所ではなし、旦那は夜逃げしたのです。その汽車賃も八重がなけなしの財布をはたいてつくつたものです」
まてよ――と私はここで頭がカラになつた。私の眼に焼きついたのは彼等の異常な疲労であつた。その疲労から私は彼等の空腹をはつきり認めることができたのである。
その一日私の心は時々秋子が気懸りであつた。その姿は中枢神経にギックリひびく恐怖の一種で有りやうは恋情のたぐひであらうか? 然し激越なものではなかつた。チラと現れ淡く消え去る微細な心の波動であつたが、その発作がすぎたあとでは三千代のことが、恰も忘れた遠い故郷を思ふがやうに、暮れやうとする海洋のむなしい広さで心に流れてくるのであつた。さうして私の心では、喜びや休息の一片の予期すらなく、ただ暮れかかる海洋にまぢらうとする切ない放心にとりまかれながら、三千代を訪れる決意を反芻しつづけてゐたのだ。
私は三千代のことをぼんやりと思ひめぐらしてゐる自分に気付き、ふど我に返つて慌てながら訪客に言つた。
「だうぞ、まあおあがり下さい。一緒に夕飯でも食ひませう。親父はどこをうろついてゐるのだらう? あいつときたら年中自分のほんとの姿と大違ひの自分の姿を考へてゐるのですよ。ふだんは何もやれもしないが、愈々せつぱつまると三原山へ飛びこむ奴の無茶さかげんと同んなじ意気で、年中考へてゐた嘘の自分を実行しはじめる。結局我々の中途半端な生活ではそれがほんとの姿だらうか? 今頃はどこの宿で無銭宿泊をして、さあ一思ひに殺してくれと力みかへつてゐることか。その様追はるる予言者の如し。親父が東京へ現れるまで貴方方は自宅のつもりでここに泊つてかまはないですよ。さうする方がいいでせう。貴方は酒を、のみますか?」
男は頻りに盃を辞退しながら口数のすくない食事を終つた。女は地方で「だるま」といふ村の居酒屋の女のやうな風采で、ああ栗谷川文五も人生を終らうとして斯様な女に辿りついたかの感深く、さればとて秋風落莫たる愁ひの中に一本の葉の落ちきつた柿の木を眺めるほどのまともな感慨があるでもない私は、骨董品但し下手物《げてもの》を玩味する眼でひなびた達磨風俗に興を覚えてゐたのであつた。
「八重も色々お世話になつたのですし、旦那も落目のことですし、無理なことをしてもらをうとは思うてゐませんが――」と、栃倉重吉は田舎風の律儀なずるさによつて口べりに深い一条の笑皺を刻みながら、やや寛ろいで言ふのであつた。
「今更奥さんにしてくれの、それが厭なら手切金のと言ふ気持はみぢんも持たないのです。旦那が落目の時はこちらで一骨折られる身分ならしたいのですが、私等もその日暮しの身分で妹をやくざな働きにだしてゐる有様であつてはそれも夢のやうなことで、せめて旦那のために八重が質に入れた自分の持物を受け出す金額だけでも融通していただけたらとかう思うてゐるのですが――」
「私はさうぢやない。着物も指環もいらないけど……」と、女は羞ぢらう気色で横手を向きながら小さく呟いた。
「私のやうな者でも置いて下さるなら、どんな苦労をしてもいいし、裸で暮らしてもくやまない。旦那に殴られても蹴られても殺されてもかまはない」
暫くのうち男は無言で、うつむいたなり別に表情の変化も見受けることができなかつたが、突然顔付を歪め泣顔に変り恨むやうに妹を偸《ぬす》み見た。
「あれほど呉々《くれぐれ》も言つたではないか。お前もよく納得したことではないか。今更そんなことを言つてどうなるものか。第一旦那とは身分も違ふし、それに旦那はどういふ巧いことを言つてゐたか知れないが(かう言ひながら男はチラと私に視線を送り、その瞬間は口を噤んだが、顔を伏せて、もはや泣言か口説のやうにしめつぽく綿々と言ひはじめた)旦那衆は女遊びに馴れてゐるから儂《わし》ら土百姓と違つて女を喜ばせる手管も巧いしよ、あげくに捨てられて馬鹿を見るのはお前のやうな学問もない器量も悪い女ばかりよ。これが田舎女でも芸者衆とかれつきとした料理屋の女中といふなら話は別だが、お前なんかは土百姓でも真面目な男は相手にしない素性の女で、大福に目鼻をつけた器量ぢやないか。よくせきの零落でもしなかつたらあのすき者の旦那がお前風情を相手にするものかよ。旦那は生れついての放蕩者で、かう言つてはなんだが儂らの土地でもさうたんとある人ではない、血も涙もないといふ噂もある人で、そこが場馴れた話上手でどういふ殺し文句を言つてゐるか知らないが、言葉の通りを真に受けて貰ふべきものもいらないの晴れて一緒になるのといふ夢のやうなことは考へないものだ」
「兄さんに買つて貰つた指環でも着物でもあるまいし、私がいらないといふものなら黙つてくれてもいいぢやないか。私はさうまでして旦那と別れやうと思つてゐないもの」
「俺が金のことを言うてゐると思つてゐるのか。まあいいさ。お前はさういふ馬鹿な女だ。いいか。俺の言ふ大事なところはここのところだ。旦那は生れついての放蕩者で何十年このかた近所近辺の嗤はれ者だが、持つたが病でこの齢になり乞食のやうに零落はしても浮気はやめられない。町の人には見離され昔の馴染も相手にしてくれなくなつても、それがあの人の報ひで世間の道理といふものだ。すこしでも物の道理を弁えた者ならあの旦那を相手にしないが当り前で、憫れみをかけるも阿呆といふのが普通ではないか。お前が馬鹿なばつかりにその極道の旦那に心中立てをする、世間の物笑ひになるばかりか旦那も陰で赤い舌をぺろりと出して笑つてござる、そのざまに気の付かないのがなさけないとこの俺が言うてゐるのだ」
「殴られやうと蹴られやうと騙されやうと殺されやうと私が好きなものなら」
と、女はかすかに泣きはじめた。
「馬鹿でもずべたでも私も苦労した水商売の女だもの、私なりに男は見てゐるよ。あの旦那のいいところも見てゐるよ。それで騙されて本望なら兄さんは黙つといでよ」――
こんな陳腐な情景を綿々と描写するのは私自身もやりきれない。然し有体に白状すれば、当事者としての私はこの情景に眼を背けたいとも思はなかつたばかりか、若干の好奇心にかられて事のなりゆきを見終りたいと思つたほどだ。然し私の心に明滅する三千代訪問の決意はそれを自由にもさせなかつた。私は彼等に眠ることをすすめておいて爽やか
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