の顔も、私の身体も、そして私の心まで、石のやうな冷めたい無表情がつづいてゐた。然しふと、まるで私が予想さへしてゐなかつた糸のやうな細ひ涙が溢れやうとするのであつた。私は涙を隠すために空々しく横を向いたが、涙は流れるほどもなく忽ち消えたのであつた。
部屋は乱雑そのものであつた。然し品物は何もなかつた。小さな部屋の窓べりに、寝床を敷いて、弥生がねてゐた。枕もとに薬瓶。そのほか部屋の何処といはず、食器や茶道具がころがつてゐた。弥生の足もとの方に、三千代の店に働いてゐた春子とよぶ小柄な娘がむつつりとした無表情で坐つてゐた。
「どうしたの? 弥生さんは? 病気?」
私は心の苦しさをまぎらすために、春子に向つて話しかけた。春子は困惑を表はして、仕方がないといふやうにガクンと頸を縦にふつて俯向いた。
「ねえ、ねえ、教へてよ!」
三千代は私の肩に縋りついた。私の顔を自分の方に向けさせた。生き生きと私を見上げた。
「教へてよ! この四十日どんな風に暮してゐたの? 楽しかつたの? 悲しかつたの? 淋しくはなかつた? 面白いことがあつて? 病気をしなかつたの? 私のことを思ひだして? いいの! いいの! 答へてくれなくつても、いいのよ! 来てさへくだされば満足なの。アハヽヽヽヽヽ。あたし嬉しくて堪らないわ! 喜んぢや悪い? あたしアトリヱの所までソッと行つてみやうかと思つたわ。でも、叱られると怖いから、止したの。今日は怒つてゐないわね? ねえ、さうでせう? ほんとに今日は怒つてなんかゐないわね?」
私は笑ひながら頷いてみせた。そして坐つた。
「どうしたの? 弥生さんは?」
私は再び春子に向つてそれを訊いた。春子は今にも泣きだしさうな困惑をうかべながら三千代をみつめて、「言つてもいいかしら?……」と、助力をもとめるかのやうに呟いた。
三千代は漸く自分の言ひたいこと以外の話題に気付いた様子であつた。
「この子、喀血したの、でも、たいしたことはないのよ」
三千代は強ひてなんでもないやうに言はうとした。私に重荷をかけないことが、この女のたつた一つの希ひのやうに。それから急に活気づいて、
「弥生ちやん、早く治りませう! さうして楽しい旅に連れていつて貰ひませう! 温泉! 海! 南洋! さうだ! こんど南洋へ連れてつて下さいね!」
三千代は生き生きと叫びはじめた。私の心はたそがれて、物音も動きもない暗い海に変るばかりのやうだつた。私はかたまりついた冷めたい笑ひをしやうことなしに口べりに浮かべ、二千円の札束をつかみだした。
「ずいぶん長い苦しみをさせたね。これで償ひはできないが、何かの役に立ててくれ」
私の声も泥沼の音のやうに虚しかつたにちがひない。札束をみつめた三千代の顔色は蒼ざめた。三千代は怖々と私の眼に視線をうつすと、突然サッと顫えあがり、おし隠すやうに札束の上を私の手諸共鷲掴みにした。
「これであたしと別れる気なの!」
三千代は絶望の叫びをあげた。
「いやだ! いやだ! うそだとおつしやい! あたしが貴君にお金が欲しいといつ言つて! この生活が苦しいなんて、訴へたことがあると思つて! 卑怯だわ! あたしがいやになつたのなら、たつた一言さう言つてよ! あたし、それが貴君のためなら諦らめるわ! でも、いやだ! そんなみぢめなことが、あたしの死ぬまでありませんやうに! 神様! だましてゐてよ! そつと向ふへ行つちまつてよ! あたしいつまでも斯うして貴君を待つてゐるわ! こんな金! あたしが欲しがると思ふなんて!」
三千代はいきなり札束をとると、絶望の放心にとりつかれた軟柔の動作で、室内一面にバラまいた。札束は部屋一面に散らばつた。
「さうよ! さうよ! お姉さん! こんなお札破いちやう方がいいわよ! アハヽヽヽヽヽ」
一瞬の沈黙を破つてけたたましい笑ひ声が起つたと思ふと、弥生がもつくり半身を起して、狂気のやうに哄笑しながら、二三枚の札幣《さつ》をつかんでビリビリ千切つた。
「破いちやつたわよ! 破いちやつたわよ!」
叫びながら弥生の笑顔は石のやうに蒼ざめてきた。茫然と一つの空間に視線を据えてゐたかと思ふと、突然顔を布団の中へガバと押しこみ、火のつくやうに泣きだした。狂つたやうに背をうねらせた。
私の心は平静を破られはしたが、然し騒がしいものではなかつた。
「別れやうなんて、さういふ意味はないのだよ。これはただ軽い償ひのための金だ。勿論お前は、これを破いても焼いてもいいのだ」
私はできる限りの優しさと静かさで言つた。私は三千代を強い言葉で励ましたかつたが、さういふ言葉も、さういふ強さも浮きあがらうとはしなかつたので。
さうして私が部屋一面に散らばつた札ビラを見るともなくぼんやり眺めてゐるうちに、私はその札ビラが拾はれもせず散るにまかせてあることが、全く守銭奴の心理によつて、ふと気がかりになつてきた。
――三千代に比べてなんて浅間敷い心だらう!(と、まるで何か辛味のやうな自嘲を感じた)札ビラの散らばつたのを見てゐるだけで、あれがこれからどうなるのかと気が揉めるのだ! まるで往来へ落ちてゐることと同じやうに。一枚だつて大金だぜといつたやうに。心の奥の出来事だからいいやうなものの、人に見抜かれたら目も当てられない醜怪なものに違ひはないて。……私はボンヤリと考へてゐた。
すると私の心の奥に、唐突な、破裂を喜ぶ快感がもりあがつてきたのだ。その快感が浮ぶと一緒に、突然の亢奮から全身の血が逆流した。あの札ビラを一枚一枚たんねんに拾ひあつめろ! その醜悪な姿を行へ! それによつて可憐な女の高潔な魂にわびるがいい! せめて自らの醜怪さに暗黒の涙をふりそそぐがいい!……私の心はだしぬけに、かやうな狂気の喚き声をたてはじめたのだ。
私の記憶によれば、曾《か》つて斯様な精神状態を覚えたことは、これまで必ずしもなかつたとは言へないものを感じてはゐる。然し斯様な心の動きを実際の行動にうつすなんて、およそ私の趣味でもなく、性格でもありえない。私はすべて常に心に於てのみ人間なみの正義や冒険を行つてゐるだけの男だ。それが実際の行為の中に行はれることがあらうなぞと、私のどんなうかつな夢想が考へ得たことがあらうか! ところが、この日は――私が殆んどアッと呆れるひまもなく、私は不意に動きだして、我に返つた瞬間には已になにか獣めくものうい動作で、まるで一つづつ反芻しながら食ふ様で、札ビラを拾ひはじめてゐたのであつた。
冷汗が流れ、めまひがした。到頭やつたな! 私は急に気を失つてしまひさうな気持もした。直ちに私は観念もした。然し私は泣きだしさうになつたのだつた。
――ゆつくり拾へ! けだもの! さうだとも一枚づつ。……暗黒の、墨汁のやうな濁つた涙がもろもろと流れでてこい! 醜怪な魂を醜怪な姿にハッキリと具現しながら、もつと惨めな獣のやうに札ビラを拾へ! その惨めさを、そして自らの心の上に焼きつけろ!
然し私は一方の心で糞落付きに落付いてゐた。私は顔も赧らめず、表情も変えず、全ての札ビラを克明に落付き払つて拾ひ終つた。それを静かに三千代に渡した。その瞬間には、かすかに異常な動悸すら鳴つてはゐない感じであつた。
「僕を疑つてはいけないよ。僕はこの金でお前の過去を買ひはしない。一冊の古雑誌と同じやうな軽い気まぐれな土産だけだ。お前を忘れるどころか、どうやらこの四五日来、生れて始めてお前を本気で愛しはじめてゐるやうな気がする。尤もそれも、どこまで本気で、どこから気まぐれか、俺にはつきり分りやしないが。……さうだ! 俺はまた明日この部屋へ訪ねてこやう! 来ると言つて、来なかつたことは一度だつてないぢやないか!、然し訪ねる約束なんてこの日までほんとに稀にしか結んだことがなかつたね! お前を労はる言葉なんか、この日までかけたこともなかつたやうだ……」
私の胸にあたかも真実の愛情が宿つたやうに、私は心の奥底から開らかれたやうにホッと笑つた。それは幽かな笑ひであつたが、涙ぐましく思はれるほど快くさへ感じられた。一時のあはれ! むろんそれが何の多足になるものか! 然し三千代も私の心が通じ流れたもののやうにホット笑ひ得た様子で、私は三千代のすすめるままに夕食をたべ終り、明日の来訪を約して別れた。
もはや夜になつてゐた。私は一度街へもどつて蕗子のために五万分の一の地図なぞを買ひ、それから彼女を訪れたのはすでに九時に近かつた。私は全く事務的に明日の旅立ちに注意を与へ、それからもはや一瞬も堪えられずに、目当てもなく逃げたいやうな悲しさに追ひたてられて立ち上つた。
「帰るよ! まるで夜の海が心のやうだ! とめないでくれ! 明日だ! 明日だ! すべては明日!」
私はまるで架空の敵と争ふやうに、見栄もなく、必死に蕗子を抑へる身振りをしてゐたのだ。
街へ出て私は強《した》たか酒を呷つた。荒れ果てた心の流れるままに、疲れた心を魔窟へ運んだ。相手の女は無智で陽気で気が良かつた。嘘八百の身の上話をきかせてゐると、喋るうちに私に涙が溢れてきた。その莫迦話しに怒りもしないで、然し別に面白さうな様子もなく女はそれをきいてゐた。
「ほんとに愉しい天使のやうだ! 俺が今夜欲しかつたのはお前のほかのどの女でもなかつたのだ!」
私が最も大袈裟に必要以上の莫迦感動を喚いてみせても、それで至極単純に機嫌をよくした女だつた。こんな場所で睡れたことのない私が二時間あまりグッスリ睡つたほどであつた。
翌早朝上野駅へ駈けつけて、トランプの女王様の出立に間に合ふことができたのだつた。ヂャックはひどく惨めであつた。阿呆のやうに莫迦陽気で天気がよく、呆気にとられた女王に向つてベラベラ喋り、併せてゲラゲラ笑ひまくつて、白熱的に激励しながら送りだした。――何の杞憂も懐かなかつた空虚なクヰンの出立が思ひがけない悪い結果になることを、勿論夢想することがなく。――
その二 逃げたい人々
話はとりとめもなく混乱するが、生憎と私の筆を一層まごつかせるためのやうに、脈絡のない二三の出来事が数日のうちに輻輳《ふくそう》して起つた。完璧な物語りに比すまでもなく、殆んど何等の技巧も整理も施してないこのプリミチィヴな記述に於ても、改めて話を切りだすためには一応迷つたほどであつた。尤も事件の当事者としての私は、ひとつの出来事によつて、他の出来事に由来する心の負担をまぎらすこともできたといふ、この際としては天祐的な功徳もあつたが。
私の父(即ち芹沢東洋の兄)栗谷川文五は五十五歳であつた。五尺八寸の大男で、恰もボオドレエルの肖像に似た誠実な苦悩に富んだ詩人の容貌を持つてゐるが、有体は十銭握れば三十銭のみたくなる呑んだくれで、消極的な鋭さはあるが積極的な逞しさに欠けた不平漢とも言ふべき男か、常日頃いい加減な嘘つぱちか駄法螺を吹いて孤高に肉心二つながらの貧困をまぎらしてゐた。数年前の話であるが、私はある日新聞に偶然次のやうな広告を読んだ。
「尋ね人、六十歳の老人。六尺近き大兵。骨格逞しく特徴ある怒り肩なれど、鶴の如く痩せ衰ふ。顔面蒼白、額は広く眼光鋭し。常に空間の一点を凝視し、蹌踉《そうろう》と道を歩く。その様追はるる予言者の如し」
勿論父の人相書きではなかつたが、年齢を訂正すればそつくり父に当てはまる人相でもあつた。当時父は事業の重なる手違ひから半分は悲愴を気取る自棄《やけ》を起して呑みまはり、白昼は町外れの山林に隠れて睡るやうに考へこんでゐたといふが、夜毎に旗亭へ現れて痴酔のあげく、せせらぎの水音高い河原へ降りて前後不覚に砂利の上へ倒れてしまふのだといふ、梟のやうな生き方をして今更ながら町民の笑ひの種になつてゐた。妹のそんな消息があつた頃で、他人事《ひとごと》とは思へぬ不快な想念が私の頭をかきあらした。
私は肉親に就て物語ることがまことに不快だ。それといふのが肉親に特別の愛や憎しみを寄せてゐるからではなく、むしろ彼等に愛も憎悪も感じることがないからである。それにも拘らず、肉親と私との事々のつながり[#「つながり」に傍
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