の姿だ。今日では死のまことの姿は実は生きることそのことに他ならないと私は言ふのだ。
私は先日、もはや夜更けであつたが、一人の新聞配達氏の来訪を受けた。私がのつそり突つ立つた玄関の扉を細目にあけて怖々と屋内を覗いてゐるその顔は、狡るさうな笑ひの皺に刻まれて苦悶の相が一緒くたにのたくつてゐた。「実は――」と彼は吃りながら漸く言つた。「急に学資がいるのですが、特別のはからひで今月の料金を払つていただけませんか?」
その日は月の一日か二日で数日前に金を払つたすぐあとなのだ。私が黙つて突つ立つてゐると、彼の顔には急に大きな絶叫をあげて後ろも見ずに走り消えて行きたさうな懊悩が、まだ物欲しげに歪んでゐる狡猾な笑皺と一緒に醜悪に深かまつてゆくのが分つた。集金をあつめて逃げるつもりに違ひない、と私は思つた。――この面は百円の苦痛を賭けてゐる面だ。丁度百円の代償に当る面なんだ、と。私はその時奇妙なことに百円といふ数字をきめてふいに思つた。さうか、この面は百円の苦痛を賭けた面なんだな、と。待ちたまへ、と私は言つて、机の抽出しをガチャ/\やつたが持ち合せは四十銭で新聞代に足らなかつた。私は書棚から一冊の本をぬきだしておど/\した来訪者の鼻先へ突きだした。これを売つて金にしたまへ、紙片《かみきれ》はいらないのだと私は言つた。私は彼のほつとした顔付や狡るさうに光る眼の玉や複雑に歪みかたまる醜悪な表情を見たくもないので、自分の部屋へさつさと戻つた。畜生め、百円の苦痛を賭けた面付なんて不愉快だ。俺もあんな面付までしたことがあつたがと思ひだしたり、腹が立つほど苦しくなつたばかりであつた。私は曾て、二十三四の頃であつたが、のどかな郊外の道を歩いてゐるうちに、突然百円の苦痛を賭けた惨めな泣面がせずにゐられぬ自虐的な気持に襲はれ、折から通りかかつた寺院の庫裡《くり》へとびこんで、難渋した旅の者だが一飯の喜捨をめぐんでくれと泣声をはりあげて叫んだことがあつたりした。別にそれを思ひだして腹を立てたわけでもないが。
来訪者は音を殺して帰つていつた様子であつた。それで済めば文句はなかつた。数分すると、玄関の扉が静か乍ら突然あいて、物の投げ入れられた音がした。それから人が逃げて行く。出てみると、さつきの本が沓脱《くつぬぎ》の上へ置いてあるのだ。
「この馬鹿野郎! 鼻持ちのならない野郎だ!」
私は本を拾ひとる
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