気持にもなれなかつた。一目ぢろりと見流しただけで眼をそむけたい思ひすらした。私は部屋へ戻つて急に寝床の中へもぐりこんだ。男の愚劣な感傷が私のいい加減なポーズを揶揄するやうに思はれもし、いつぱし自分の軌道に乗つて足を踏みしめてゐるつもりのものが、砂上に柱をたてたも同然浅間敷いぐらつき方が分つたやうな惨めな自嘲がわきおこらうとするのであつた。
「てめえが泥棒にはいつた方が俺はよつぽど御愉快だ。馬鹿野郎!」私は恐らくてれかくしから金切声で怒鳴つたりした。
 ――そいつが身を切られるやうにつらいのだ。いつぱし生き生きとした自分の生き方をしてゐるやうな思ひあがつた自己満足の幽霊のやうな足のない恰好を見るがいい。それあ生きてゐる人間のすることぢやないんだぜ。死と馴れあひのあんまり惨めな人間の姿ぢやないか。死を避けられない人間の諦観からきたカラクリの一つなのだ。人間に死があるための、もはや殆んど本能と化した一つの愚劣な知的活動のたぐひであらう。そんな風にまでしてせめて生きやうといふのだが、そんな風にまで形の変つた死の姿なのだ。生きる限り生きることにひけめ[#「ひけめ」に傍点]を感じ、存在そのものに敗北しつづけてゐるやうな、その惨めな生き方を俺は一片《ひときれ》もしたくない、見たくないのだ。……
 熱病のためにうはづつたかのマニヤの姿に見えもしやう。私はマニヤで結構なのだ。余りにも観念的なと言はれもしやう。それも亦望むところだ。よしんばそれが愚かな遊戯であるにしても、それ自らが全一の白熱をかたどり退きも怖れもならぬ上からは、観念の馬に打ちまたがり懐疑の鎧に身をかためたラ・マンチャの紳士に他ならぬ私の姿であれ、私は風車に打ちかかる自らの姿に向つてそれが全ての凝視を送り、敢て瞬きもすることはならない。
 私は「家庭」に於て、殊に余りにも安易に手なづけられ、張り渡された死のカラクリを嗅ぎつけずにゐられない。それは恰も、人はかうして死んで行くのだと、蒼ざめた小生意気な死神の奴がどつちを向いてもぐるりと四囲をとりまいてゐる。さういふものを家庭に嗅がずにゐられないのだ。しかも又なんと脱けだしがたい泥沼。私は然したいへん筆をすべらしてしまつた。私は物語りに立ちもどらう。
 私の母は私が小学校へ通ふうち死んでしまつた。子供が二人、私と、五つ違ひの妹がのこされた。父は再婚しなかつた。のこされた二人の
前へ 次へ
全63ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング