狼園
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)悄《しお》れたりする。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)機械|機《ばた》を動かした

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ひたむき[#「ひたむき」に傍点]をもつて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おや/\
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   その一 冷血漢

 温い心とは何物だらう? それからまごころといふことは? 愛といふことは?
 私の父は悪者ではない。それから叔父も、妹も、三人の特別の関係のある女達も。そのうへ此等の人々は私に対して危害を加へないばかりか、私の幸福を祈つたり、私が俗物ではないことを私以上に確信したり、私が私自身に対してさへ労はることを絶対に許さない苦悩に対して労はりの情をさしむけやうとしてみたり、私の愛情に依頼したり、それに裏切られた寂寥に打ち悄《しお》れたりする。やりきれないことだ。
 この人達が私に向つて答へを求める権利があるといふことを、私は一応承認しやう。私は屡々《しばしば》形式的な返事さへ出し惜しみをする傾きがある。自分乍ら毒々しいと思ふほど、苦りきつた顔もしがちだ。按ずるに答への義務があると思へばこその話で、路傍の人に対してなら、厭な顔もみせない代りに、返事もしないで通りすぎてしまへばいいのだ。いや、それどころか、路傍の人に対しては時々ひどく親切だ。聞手の頭が痺れるほどの綿密さで、間違ひのない道順を教へるために数分の労力を費したり、右と左に別れる時には厭な思ひをさせないためにわざわざ微笑を泛べることも、その程度の無駄な厚意は齲歯《むしば》が疼く時でさへ気分によつてはやりかねないのだ。私のこんな親切が自分の場合にかけられた覚えのない妹は、驚いたり疑ぐつたり自分一人の断定を下すために急いだりする。あらはに不満を表はして、私が常々肉親に対して誠実な答へと信頼が欠けてゐると難じたこともあつたのだが、陰へまはると、たとへば叔父や友人に向つて、うはべの冷酷と微笑を忘れた堅い顔はもはや性格化されたペッシミズムの結び目に当る宿命の瘤で、裹《つつ》まれた心の温かさは人にも稀れであるといふ。この種類の、又この深さの解釈は屡々女性が行ひがちだ。彼女等の現実的な眼光は甚だ辛辣に扮装の下を射抜いてくるが、ある限度の深
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