だつたのだ。人間は利他的なることの満足に確信はもてないけれど、それは利己的なることの確信ある満足を意味しない。さらに利己的を持ちだすまでのことはなく、問題はそれ以前の損得の先にあるのだ。即ち人間は死によつて生きることの根柢から存在それ自らが不安と同意語に他ならなかつた。建設? 鸚鵡返しにその反駁のでることは無論言ふまでもないことだ。然し建設そのことが即ちまづ不安からの出発ではないか。――非算数的な値打に対する打算の不安は、要するに生が死に対しての打算の不安に他ならぬのだ。……
恐らく諸君は笑ひだす。おや/\思ひもよらぬ奇妙なところで又死の奴が現れた、と。まるで薬籠から家伝の秘薬をとりだすやうに、急場を救ふにこれは又何にも増して都合のいい万病丸に違ひない、と。
さういふ諸君は、然し死に就て考へるたびに、何か生きることは様子の違つた別物のやうに奇妙な考へ違ひをしてゐるに相違ないのだ。死とは何ぞや? 幽明境を異にしたあちらのことか? 冗談ぢやない! 死は生きることの他のところを探したつてありやしない。見給へ、生きてゐる自らの相を! 生きてゐることを! 生きてゐること、それが即ち直ちに死なのだ。それが死のまことの相だ! これを逆説と言ひ給ふな。さういふ諸君は死の相を生きることの他の場所につかみだすことができるだらうか? 棺桶か? 墓地か? もとよりそんな筈はない。死は無限の暗黒、単調であり、静寂に他ならぬともいふ。それを体験した誰があらうか! むしろ斯様な理窟よりも地獄絵図に死の相を見るのが自然の感情に近いのだ。然し私は死の体験を語る者のないことを幸ひに、生きることの他の場所に死の相を見出すことができないから、結局死は生きること、そのことだと左様な揚足をとつてつめよる心算は毛頭なかつた。私は高遠な真理を言ひあてやうといふのではない。私は実は俗論派だ。然しただ、一つの見方の相違から生き方の相違が生れることを信じ、とにかく私の生きる姿が見たいのだ。
死後の無限なる単調、断末魔の苦痛、不可知への怖れ、死を怖れるそれらの理由は或ひは真実にちがひない。然しそれも今ではどうでもいいことだ。我々の現在はたとひ時にそれらの恐怖を覚えることがあるとしても、それが直接生きることの問題にはならないからだ。我々の問題はもとより常に生きることの中にある。そして、生憎のことには我々の生きる姿は死
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