憎まれも厭がられもせずそれとなく幾らかの分け前をくすねてゐるのが悧巧でなくてどうなるものか! つまり腹を立てると損をする、腹を立てるなといふのではなく、腹を立てるといふこともそれはそれなりに真実でもあらうが、「損をしない」といふことが尚一層の真実なのだ。と。
 この反駁は大人達の誰からもよく聞くが、私はこれをきくことが実に甚だ不愉快だ。反駁の内容が不愉快なわけではない。恰もこの思想をもつて人間の最深処を突きとめたかのやうな得々とした成人ぶりが最も鼻持ちならないからだ。生憎のことに、この輩ほど坊主にも増して厚顔無恥な成人ぶりを得々然と気取る奴もないのである。
 まづ第一に、人間は利己的なりといふことに、私は全く反対意見をもつものだ。いつたいどうして人々はとかく人間は利己的だときめたがるのだ? もとより近代を席捲したかの実証精神の最も栄光ある所産の一つではあるにしても、そして我々の日常の内省が最も通俗的な実証精神の鏡にかけても直接甚だ端的に利己的であるにしても、一見直ちに明瞭の如きが故をもつて、直ちにこれを真実と断ずることはできないぢやないか! 端的に明瞭なるものは時に通俗かつ浅薄を意味することもまことに真を穿つてゐるぢやないか! さうではないか。つまり我々の日常を省みるに、利他的であらうとし、或ひは利己的なるものに反した意志乃至行為に対して心底常に不満の感に堪えない。そのことが一目瞭然であるにしても、だから人間は利己的だと直ちに言ひきつてそれでいいのか? 利他的ならざることが必ず利己的を意味するか? 何よりも、利己的ならざる意向に対して不満の念のあることを動かすべからざる根拠とするなら、抑々《そもそも》我々の不満の念が、生存の理由を決定的に根拠づける示標となるほど重大な意味をもつてゐると見てもいいのか?
 私は舌足らずの理窟にひどく疲れた。私流の断案をいきなり切りだすことにしやう。私流の解釈によれば、人間は算数的に割りだせる利益或ひは価値に対してひとつの確信をもつて判断を行ふことができるが、ひとたび算数の手掛りを失ふや否や常に不満不安の裏打ちなしに何事もなし得ないものなのだ。私はそれを次のやうに解釈する。即ち我々の「生」そのことが非算数的な、かつ一にして全なる価値であつて、非算数的な値打に対する打算への絶えざる不安不満は、つまり「生」そのことの打算に対する不安不満の影
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