(死ぬるも同じ)といふことは、腹も立てるな、心にもない生き方をしろ、嘘をつけといふことだ。家庭とは斯様な生き方のはきだめ[#「はきだめ」に傍点]であり避難所であり、今ではかかる生き方の母胎と化した不思議な迷宮にほかならないと言ひきりたい。――私の言ひ方はあまりにも幼稚なものに見えるであらう。さういふ大人はなるほど世間に俗に言ふ「大人の言ひ方」を知つてゐるのだ。「大人げない振舞ひをして莫迦を見るな。悧巧に生きよ」といふことを。然し悧巧に生きることが果して大人の振舞ひであらうか? その悧巧さはあやまられてゐないのか? 同様にその大人とは甲羅をへた子供といふよりなほ悪い権威への極めて皮肉な迎合を意味してゐないか? 私の考へによれば、それが大人の言ひ方で悧巧な生き方であることを、「死にぶつからない生」の奴が太平楽に寝言を言つてゐるだけなのだ。私は断言するが、「死にぶつからない生」といふのは贋物です。かりそめにも生きることに於て、確実にして正確な死とぶつからない生き方は「生き方以前」といふものだ。それは真物ではなかつたのだ。率直に私の考へを述べれば、生と死は別物ではない。生きることは即ち死それ自体に他ならず、それ以外の何物でもあり得ないのだ。――
 すると大人は反駁する。死? 冗談ぢやない! 誰がそんな夢物語をきいてゐた? 生きることは死自体だと? そんな逆説は改まつて考へてみる気持もないが、いきなり話をそんなところへ飛ばされたんでは、とにかく聴いてゐる方で莫迦らしすぎる。私はとかく本質的な抽象論といふ奴が苦手だが、私は私なりにもつと身近かな、然し恐らく何事よりも赤裸々な底を割つて「実際の経験」の果を理窟ぬきで言つてゐるのさ。つまり七面倒な理窟ぬきにすぐと背後《うしろ》をふりかへつてみたまへ、それだけでいいのだ、即ち人間といふものは元来が、どの血管、どの神経の一本までもといふほど純粋かつ徹底的に利己的な動物なんだ。生きるとはつまり自分の利益のために生きることに他ならない。然し世間は面倒だ。表だつて直接我利一点ばりに暮せる所ではないから、義理とか人情といふわけの分らぬ約束にも分相応のふるまひをしなければならず、時には私慾を忘れたやうな顔付もしなければならないが、そこで悧巧に暮らせといふのはそこのところだ。所詮世間は騙しあひだ。嘘の坩堝だ。嘘をつくといふことだけが真実なのだ。人に
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