いけないよ。僕はこの金でお前の過去を買ひはしない。一冊の古雑誌と同じやうな軽い気まぐれな土産だけだ。お前を忘れるどころか、どうやらこの四五日来、生れて始めてお前を本気で愛しはじめてゐるやうな気がする。尤もそれも、どこまで本気で、どこから気まぐれか、俺にはつきり分りやしないが。……さうだ! 俺はまた明日この部屋へ訪ねてこやう! 来ると言つて、来なかつたことは一度だつてないぢやないか!、然し訪ねる約束なんてこの日までほんとに稀にしか結んだことがなかつたね! お前を労はる言葉なんか、この日までかけたこともなかつたやうだ……」
 私の胸にあたかも真実の愛情が宿つたやうに、私は心の奥底から開らかれたやうにホッと笑つた。それは幽かな笑ひであつたが、涙ぐましく思はれるほど快くさへ感じられた。一時のあはれ! むろんそれが何の多足になるものか! 然し三千代も私の心が通じ流れたもののやうにホット笑ひ得た様子で、私は三千代のすすめるままに夕食をたべ終り、明日の来訪を約して別れた。
 もはや夜になつてゐた。私は一度街へもどつて蕗子のために五万分の一の地図なぞを買ひ、それから彼女を訪れたのはすでに九時に近かつた。私は全く事務的に明日の旅立ちに注意を与へ、それからもはや一瞬も堪えられずに、目当てもなく逃げたいやうな悲しさに追ひたてられて立ち上つた。
「帰るよ! まるで夜の海が心のやうだ! とめないでくれ! 明日だ! 明日だ! すべては明日!」
 私はまるで架空の敵と争ふやうに、見栄もなく、必死に蕗子を抑へる身振りをしてゐたのだ。
 街へ出て私は強《した》たか酒を呷つた。荒れ果てた心の流れるままに、疲れた心を魔窟へ運んだ。相手の女は無智で陽気で気が良かつた。嘘八百の身の上話をきかせてゐると、喋るうちに私に涙が溢れてきた。その莫迦話しに怒りもしないで、然し別に面白さうな様子もなく女はそれをきいてゐた。
「ほんとに愉しい天使のやうだ! 俺が今夜欲しかつたのはお前のほかのどの女でもなかつたのだ!」
 私が最も大袈裟に必要以上の莫迦感動を喚いてみせても、それで至極単純に機嫌をよくした女だつた。こんな場所で睡れたことのない私が二時間あまりグッスリ睡つたほどであつた。
 翌早朝上野駅へ駈けつけて、トランプの女王様の出立に間に合ふことができたのだつた。ヂャックはひどく惨めであつた。阿呆のやうに莫迦陽気で天気が
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