あらはに顔を顰め最も分りきつたことを答へた。
「堕胎したら、今度こそあの男にやられるでせう」
 言ひ終ると私の頭は空《から》になつた。私は自分を立て直すために秋子の視線をしつかりと見返したが、やがて秋子は視線の中にどうにもならない微笑を浮べ、そして弱々しくお辞儀をしかけた。
「では失礼しますわ……」
「さよなら」
 私はふらぶら振向いた。いきなり自動車を呼びとめて乗り込んだ。
「大森へやつてくれ!」と無意識に叫んでゐた。
 私は車の中で空想した。明日秋子から手紙がくる。文面には次のやうに書いてある。「今のうち貴君と絶交のできたのは幸福でした。貴君には、大悪党といふ言葉が、ただ一つ当てはまります」――こんなに急所をつかれ、同時に恥辱を感じることがあらうか! 私の頭は破れさうに思はれた。
 自動車は大森も工場地帯の五味つぽい草原の横でギイと止まつた。私は自動車を飛び降りてから、自分で命じてきたくせに、何のためにこんな所へきたのだらうと一時ぼんやりしたほどだつた。然し私は別に躊躇もしなかつた。一軒の見るからに品格のないアパートへ私はまつすぐ這入つていつた。ここにも私の一人の女が住んでゐるのだ。
 女の名は三千代といつた。数ヶ月前までは、ある盛り場の小さな然し客の立てこむ酒場のマダムであつたのだが、私との三年越しの関係が到頭主人に気付かれて、裸で店を追はれたのだ。弥生とよぶ十七才の異母妹を連れてゐた。三千代はたとひ彼女等の米に事欠くことがあつても(そしてそれが実際に訪れてゐたが――)その悲しみを決して私に訴へなかつた。私に叱られることだけが彼女の唯一の悲しさだつた。もしも私が死ねといつたら、そしてその心がまぎれもない私の本音と分つたら、恐らく「私を喜ばすために」彼女は自殺するだらう! 私は三千代に冷酷であつた。
 私が彼女の室へはいると、三千代は瞬時疑はしげに後へさがつたほどであつた。彼女は私の胸の前まで一飛びに走つてきて、然し私にとびつくだけの勇気がなく、顫えながら身を竦めた。
「よく来てくれたわね! 四十日ぶりだわ! 忘れなかつたのね! もう忘れたと思つてゐたわ! 時々泣いてゐたけど、恨んでなんかゐなかつたわ! 恨んだことなんか、一度だつてありやしないわ! ねえ、弥生ちやん! さうだつたわね!」
 そして三千代は竦みながら私を凝視め、がつかりしたやうに笑ひだした。
 私
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