感じがないし、誤魔化す隙もありやしない。それにしても料理代の十円とは吹きやがつた……
と私は負け惜しみに肚の底でつぶやいた。私はあつさり立ち上つた。ポケットから二枚の十円紙幣を抜きだして卓子の上へおき私達は立ち去らうとした。かうして私達がまことに敗色歴然たる後姿を扉の外に消さうとした時、「秋子!」と事務家は突然鋭く呼びとめて、
「俺の子供のことに就いて、いづれお前に相談に行くぜ」
と皮肉な言葉を浴せかけたのであつた。名将の号令もかくありなんと思はれたほどこの場の空気にぴつたりとした本格的な皮肉であつた。私は遂にかくて彼の本格的な武者振りを十二分に認めるところの仕儀となり、無残にも旗をまいて退くこととなつたのである。嗚呼! 凜然としてヂャックナイフを購《もと》めた時の武者振りは、この際諸君の記憶から洗ひ流してもらひたい。
敗軍の将は兵を語らずといふこともあるが、無役なお喋りにはなるらしい。私は全くくだらぬことを道々秋子に話しかけた。秋子の顔色は蒼白く、私の出鱈目な饒舌に取り合ふ様子もなかつたし、私の心もそこにはなかつた。私の心のこのうらぶれたチグハグが、あの「想念」を一層はつきり思ひださせたのであつた。想念は急激な速度で舞ひ戻り、めまぐるしく廻転しはじめてゐた。私はさきにこの唐突の想念が已に私の牢固たる決意と化したもののやうに述べておいた。一応はさうであつたに違ひない。然しそれが実際の行為をうながす動力となるには、このうらぶれた道々のある偶然の一瞬間が必要であつた。私は突然立ちどまつた。
「僕はここで失礼します」と私は言つた。
「今日のことは忘れて下さい。然しこれで、あの男に関したことは全部終つたと思ひます。僕の手際は愚劣でしたが、あんな芝居をするほかに、名案もなかつたのです」
「あたしは子供を生まなければならないでせうか?」
アッと思ふ隙もなかつた――と、私はそんな風に感じたのだ。まるで眉間を打ち割られたやうに。秋子はヂッと私を凝視めて斯うハッキリと言ひ切つたのだ。
私の偽善者めいた甘い気取りは木ッ葉微塵に踏みくだかれたやうだつた。私は混乱し、のぼせた。全く私はあの豪傑を自分や叔父との関係にばかり眺めてゐて、こんなに分りきつた、哀れな女の恐ろしい問題を念頭にかけたこともなかつたのだ! 私は忽ち冷汗すら流した。私は分裂した思考力を集中しやうと努めながら、然し
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