くものを聞き逃すわけにもいかなかつた。
 秋子の顔には何の動きも表れなかつた。然し私の方を見た。
「ええ、一緒にここを出ませう」
 と、秋子は私に言つた。
「こんな話のために貴方がここへ来る必要はなかつたのです。人をゆする権利なんて、始めからこの人にはない筈です」
「君……」
 と、私は豪傑に向つて言ひかけながら、変な風にあはてふためき、私の舌まで、もつれたやうに、わななきうはずつてゐた。
「どうも僕は妙なことをしたやうだ。君に会ふ必要はなかつたやうな気がするのです。会はない方がよつぽどましのやうに見えるが……」
 私は一時ぼんやりした。豪傑は我関せずの顔付で、煙草をさかんにふかしながら、全く無言でゐるのであつた。私は急に我にかへると、激越な憎しみが豪傑に向けてむらむらと沸き立つてきた。耳鳴りがして動悸が高鳴り、私の手はヂャックナイフを握りしめたい衝動のためにぶるぶる顫えるやうに思はれた。喋つたら刺す、私は冷めたくさう思つた。勿論それが私の心の全ての真実ではないのである。けれども私は刺したい殺気を抑へるために、めまひのする混乱を覚えてゐた。
「俺に会ひたかつた意味は、さつきの話で筋が通つてゐるぢやないか。会ふ必要がなかつたのなら早く帰れ」
 豪傑は私を蔑みながらひどく肉体を感じさせる強い声でその時突然私に命じた。始めて私を睨みつけたが、それは本格的な悪党の眼付であつた。私は冷静に返つてきた。
「帰るのはいいが、俺の日当を置いてけ、青二才のくせに、今後でしやばつたことをするな。世間で通るやうには通らない世界のあることを覚えておけ。お前なぞがなめやうたつてなめられないのだ。それから、お前の来るのを待つあひだここで食べた料理が十円足らずだが、払つて行け」
 これは立派な事務家だと私は咄嗟に素早く思つた。私は豪傑を見違えてゐたのだ。私は彼を実は隠された稚気を秘めた男だと思つてゐた。話によつては一緒に酒をのんで笑つて別れることも有りうると考へてゐたのだ。生憎豪傑はそんな詩人ではなかつたやうだ。彼は完全な事務家であつた。私の稚気に通じる甘さは何もない。私は自分の見立て違ひに気がつくと同時に完全な敗北を感じた。
 ――つまり五千円をゆすれるやうな派手な詩人ではなかつたのさ。あの大仕事はこの豪傑には場違ひだ。その代り一日の日当と料理代はこの男に打つてつけの商売なのだ。微塵も場違ひの
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