伊吹山秋子の二人をとりまくやうな形にもなり、二人の噂は東洋を知る全ての人に伝はるほどになつてゐた。私はなぜか心穏かではなかつた。
 さういふ一日、その日は授業のない日であつたが、秋子がふらりとアトリヱへ現れて、昨日忘れ物をしたんだけどと言ひながら暫くアトリヱにブラブラしてゐたが、やがて私をつかまへて、丁度切符があるんだけど音楽をききに行かないかと誘ふのであつた。それが全ての始まりであつた。私の見るところをもつてすれば、彼女に寄せた私の曖昧な思慕の情をいち早く看破した秋子は、却つて私を誘惑する気持になつたものとしか思はれないのだ。いはば私は受動的な形であつたが、ひとたび秋子との恋愛に希望を持ちはじめた私は、心中顛倒する歓喜の絶頂におしあげられたことを告白しなければならない。狡智に富んだ冷血漢であることを自認する私も、その時々の恋情には忘我の狂暴な状態をもつて、喜びもし悲しみもすることがあるのであつた。秋子は然し冷静であつた。私を様々な様式で待ちくたびれさせた。私はその頃絶望に沈んだ。
 私達は月に二度以上の会合を持つことが殆んど無かつた。すくなくとも秋子はそれ以上の機会を私に与へやうとしなかつた。さうして私がそれに馴れ、その上の無理を決して強要しないことを知ると、却つて驚いたほどであつた。月に二度の会合に、私達は音楽をきき、スポーツを見、展覧会をのぞいた。そんな月並な散歩のほかには、全く何事も起らなかつた。私はその頃全くそれだけの逢ふ瀬でさへ満足しきつてゐたのだ。ただ秋子に会へることだけで。話ができることだけが。肩を並べて歩けるだけで。私のそんなまるで騎士的な又子供めく思慕の至情が、そのころまでは淫婦的な気持もあつた秋子の態度を逆に改まらせることになつた。私の思ひあがつた観察であることを怖れるが、けれども私はそれを固く信じてゐるのだ。秋子は叔父との関係をひそかに反省しはじめた。その内省に苦しみはじめた。そして内省の苦しさを私に気付かせまいとするために、一層懊悩の深まることが私に分るのであつた。私に会ひたい気持が次第につのる一方には、会ふ機会を却つておくらすやうに努めた。会ふたびに次第に口数がすくなくなり、常に考へる表情になり、陽のあるうちにいつも別れを急がうとして、音楽をきいた日は音楽をきいただけで、散歩の日は散歩だけで、決してそれ以上は求める筈のない私の態度を、逆に
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