彼女がそれを私に強ひるかのやうなきびしさを見せて、秋子はやがて私の前では高潔な娘のやうに振舞ひはじめてゐたのであつた。私の自惚れた言ひ方によれば、秋子は私の前に現れて高潔な処女に再生したのだ。
芹沢東洋の塾生の一人に、秋子とは少女の頃から友達の日下部あぐりといふ女があつた。女の友は屡々裏切るために存在するといふ一例を示すためであるかのやうに、あぐりは私と一座する機会を屡々つくつては、それとない話し方で秋子の秘密を伝へやうとするのであつた。秋子には、叔父のほかに、俳優くづれの横浜に住む峠勇といふ情人があつた。峠に関する秘話の仔細は全てあぐりの口によつて、極めて婉曲な様式で然し仔細に伝へられたもので、その話を更らに裏書きするために、あぐりは巧妙な機会を掴んで秋子の古い友達を私に紹介もしたのであつた。秋子には峠のほかに、別れた男が数名あつた。そのうへ秋子はやがて姙娠したのである。この事実を私にいちはやく伝へた者もあぐりであつたが、悲しむべきこの事実を悲しい哉やがて私も認めぬわけにいかなかつた。私は落胆もしたし、絶望もした。眠られぬ夜がその頃つづいた。私は発狂するのではないかと、おののく一夜があつたほどだ。なぜといつて、考へてみたまへ、秋子が峠の子供をみごもつた頃、已に彼女は私に対して並々ならぬ厚意を示してゐたではないか! 高潔な娘の姿を示しはじめた後ではないか! 苦しみのために、私は泣いた。
私が絶望のために四囲の正確な姿を見失つてゐるころ、秋子は然し異常な決断をもつて行動を起しはじめてゐたのであつた。みごもりながら秋子は峠と絶交した。絶交しやうと努力した。つづいて叔父に対しても冷めたく振舞ひはじめたのだ。叔父に混乱が起つたのはその時からのことだつた。さうして、混乱の中ではただ一つ研ぎ澄まされた疑心によつて、薄々は気付いてゐた私と秋子の交遊に最悪の断定を空想すると、全くもつれた紐のやうに苦しみはじめたのであつた。然し叔父の混乱に対して、意外なところからエピロオグ的な思はぬ鉄槌が落ちてきた。峠勇が突然アトリヱへ現れるといふ興味ある劇的一場景があつて、叔父の混乱に荘厳な結末――あの目当のない放浪に旅立つといふ契機を与へたのであつた。
その日は丁度授業の時で、アトリヱには娘子軍が勢揃ひもしてをり、勿論秋子も居合はした。取次に現れたのは私であつた。受取つた名刺の中の名前を読
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