と気付かれた読者もあらうが、要するに、絵の制作は第二として、妻子の眼には怪しまれず毎日蕗子を訪れるためには、不便な郊外に独立したアトリヱを建てることが必要であつた! そして又当然アトリヱに居るべき筈の東洋が実は年中不在であつても、不時の急場に誰怪しまれぬ言訳けもしてくれ仕事の応接もしてくれる腹心の留守番が必要であつた。その腹心がほかならぬ私であるのは聊《いささ》か笑止の次第であるが、甥でもあり、孤独の叔父には年齢の差が問題でなく二十歳《はたち》頃から唯一のコンフィダンでもあつたところの私をおいて、この重任を果すべき人物は地上に二人と有りえない。当時私は文科大学を卒へたばかりで職業もなく、そもそも私は小学校を卒業するから専ら叔父の出費によつて生育したものである。
 当時芹沢東洋は絵画そのものの本質的な疑惑、或ひは思想的な懊悩によつて、絵筆を握る勇気さへ失はれがちな有様であつた。従而《したがつて》このアトリヱはアトリヱ本来の面目を果すことが極めて稀れで、専ら主人の不在によつて存在理由も生じるといふ奇妙な役割を果してゐたが、然し一週に三回の午前中、十名ばかりの若い娘に絵の手ほどきをするといふ私塾の用に使はれてゐた。元来芹沢東洋は、そのペッシミズムから、責任をもつて弟子の教育に当るといふ余計な心労を厭うてゐて、絵によつて身を立てやうといふ弟子を専ら断はることにしてゐたが、或時近親の娘を託されたことが機縁となり、嫁入り前の茶の湯なみの稽古とか、有閑婦人の閑つぶしといふ責任のいらない場合に限り弟子をとることにしてゐたのだ。芹沢東洋が第二回目の狂乱的な愛慕を寄せた伊吹山秋子は、それらの娘の一人であつた。従而、いはばアトリヱの主ともいふべき私が、伊吹山秋子と特殊な関係を生じることになつたのも、決して偶然ではなかつたのだ。
 叔父が秋子にひそかな思ひを寄せはじめたことは、その時々の偽りきれない表現から、相弟子達は無論のこと、私にも分つた。その頃から叔父の生活様式が変化して、授業が終ると早速引上げる習慣の叔父が、弟子を相手にいつまでも無駄話をするやうになり、娘子軍《じようしぐん》の一隊を引率《ひきつ》れて、散歩や映画を見廻ることが連日のことになつてきた。勿論叔父の目的が一人の秋子にあることは誰の眼にも明らかで、娘子軍の話題にもそれが公然のことになると、一大隊の連日の散歩も自然芹沢東洋と
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