しまふ。僕はこんなに沢山持つてゐる。而もあの人がなければ、僕には総べてが皆無になる」
私は再びからかはれてゐるのだと思つた。然し木曾野の表情には又してもその気配すらないばかりか、彼女の静かな笑ひの奥には私の粗雑な関心の全く触れることさへ許されない貴人の城があるやうにさへ思はれたのだつた。それらのことを感じながら、然し私は、ええそんなことはどうだつていいのだ、平安朝の宮庭やルイ王朝のサロンに行はれた単に感覚的な所謂 Finesse d'esprit と称ばれる類ひの智的遊戯が月光や薔薇によつて野性を刺殺し、或ひは恋する心臓の真実の言葉を発見せしめたとはいへ、ジュリアン・ソレルの恋の真実を決して育てることはなかつたのだと心に呟きつづけてゐた。私はもはや全く木曾野に無関心の自分に返つた思ひであつた。そのくせ冷汗の滲みでさうな混乱がなほわけもなく沸き立ちつづけてゐたのだが。
「僕は詩人にはなれないのです。ロマンスにしろデカダンスにしろ溺れきることができないのかも知れないのです。」
と私はもはやどうにも仕方のない気持でそんなことを呟きながら扉を開けてアトリヱの方へ歩きだしたが、私の背後では又しても私に全く思量の余地のない木曾野の爽やかな呟きが「あたしも――」と答へてゐるのが不思議な弾力をもつて耳に沁みてくるのであつた。
五名の男女は揃つて戸外へ歩きでた。
私はアトリヱの中に思ひがけなく三名の婦人を見出したこと、その婦人等と恐らく数時間は離れる見込みの有り得ないこと、それが然し決して不快ではないのだつた。私は誰とでもゐたかつた。群集と共に笑ひ泣き怒つてゐてもいいのだつた。そのとき私に堪えがたいものは孤独のみであつたのだ。然し私は自分自ら一団の雰囲気をかもしだしたくないのであつた。私は自分の体臭に疲れてゐたのだ。宿酔の朝のやうに、さうして人々のかもしだす雰囲気に安心しきつて浸つてゐたい思ひのみが高まつてゐた。
「南雲二九太を訪ねてみないか?」
と私は長平に向つて言つた。彼はがくんと頷いた。
「すぐこの近所のアパートに南雲二九太といふ若い哲学者がゐるのです。貴女方がカルチェ・ラタンといふあたりの屋根裏にくすぶつてゐる変屈な若い哲学者に就いて想像したことがおありでしたら、この男が幾らか似たところがあるでせう。本を読んでゐるのか思索してゐるのか乃至は昼寝でもしてゐるのか滅多に
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