が年中動いてゐるのですよ。突然あの人の前に跪いて許して下さいと叫びたくて仕方がないのです。それから先はどうならうと僕にはてんで見当もつきませんし、既定の計算もないのです。それどころかてんで見当がつかないから、いつそ一思ひにあの人の前に跪いて許しを乞ひたくて仕方がないのかも知れないのです。もとよりキザなことですよ。滑稽ですよ、だいたい何を許してくれといふのです? なんだつていいぢやないかと僕は怒鳴りたくなるのです。許さるべく努力しなければならないといふのですかね? さうかと思ふと、あとは野となれ山となれといふ奴なんです。あの人の前で許して下さいと一思ひに叫んだら、どんなに清々するだらう! 苦しさを一皮ぬぎすてたやうにホッとすると思ふんですよ。すぐそのあとで、あの人の目の前で、いきなり誰かほかの人に抱きついて接吻してもいいくらゐだと思ひませんか? いいえ、僕はほんとにやらなければならないやうな気がするのです。我々の生活ではそれが普通でなければならないのです。我々の心理を表現する生活が全くないくせに、我々がとにかく生活してゐるといふことは、考へただけでたまらなく不愉快になることですよ。表現する生活があれば、心理だつてもつと深く単純になり、生き生きとするのだ。たとへば僕が、今貴女に、然し、あはゝゝゝゝゝ」
 私の口から無礼な言葉が流れでたにも拘らず、私の想念の中にはそれらしい意欲が決して生々しく浮きあがつてはゐなかつた。そのために私の高笑ひは開け放された明るさで高らかに鳴りひびいた。私は尚も無限に語りつづけずにゐられぬ気持を持てあましながら、突然荒々しく立ち上つた。私の言葉の一々が頭の中を素通りし決して頭にたまらないのが明瞭に感じられ、思念の中絶が明確に意識されて不愉快であつた。
「我々は散歩しませう」と私は叫んでゐた。
「外は爽やかな初夏ですよ。エルテルの詩人の言葉にかういふ一句があるのです。大方の人は生きるために大部分の時を働いてゐます。さうして僅かばかりの自由が彼等に残されても、それが心配になつて、あらゆる手段を講じてその自由から脱けださうとするのです。ああ、人間の運命」
 そのとき木曾野も立ち上つた。微笑を浮べて私を凝視めながら言つた。
「あたしもエルテルの言葉を一つ覚えてますわ。
 夕暮
 僕はこんなに沢山のものを持つてゐる。而もあの人に対する感じが総べてを呑んで
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