の乱暴や不身持を綿々と訴へるのだが、それほど大袈裟に言ふ正体は何もないことを知つてゐるから莫迦々々しく思ふのだが、牧野さんの厭人癖・孤独癖に同化され、夫婦二人の孤独感を合一せしめてゐる奥さんにとつて精神上の姦淫すら我慢がならぬといふなら、これも先づ致し方がない。ヒステリイでさへなければ、牧野信一の文学と、文学の生む人生の仮構を充分に同情をもつて眺めてゐる奥さんだつたのである。
当時牧野さんは泉岳寺附近へ越したばかりで小学二年生だつた息子英雄君の学校のことで苦労してゐた。これからも転々住所を変へることは分つてゐるから(彼は書けなくなると引越しをした)引越しても転校の必要のない学校へ入学させたいと言ふ。私が暁星学校をすすめると牧野夫妻も賛成だつたが、かんじんの夫婦が反目の最中で神経をとがらしてゐるから手がつけられない。牧野さんは狂人のやうな眼附をして不機嫌におし黙つてゐるといふ有様で、私もつひ癪にさはつてその頃さかんに喧嘩をしつづけ、ひところは神経的な不和を生じた。牧野家へ足を踏み入れるのも憂鬱至極で不愉快だつたが、ほつたらかしてはおけないので厭々ながら英雄君をひきまはしてとにかく暁星へ入学させてしまつたのである。金がかかるといつてこぼしてゐたが、一風変つた私学の風習が牧野さんの趣味にかなつた様子で、あの学校の父兄の中では「牧野さん」(彼は時々自分に敬称をつけて呼んだ。むしろ愛称といふべきで、かういふ点でも彼は完全に自己に憑かれてゐた人である)が最も貧乏だと頻りに吹聴してゐたが、それはひがみでなく、ここでも彼は暁星第一の貧乏な父兄であることを巧みに自家設計の人生へくり入れて楽しんでゐた形であつた。その頃から神経衰弱もおさまり、私との神経的な反目も柔らいだが、その頃から私は文学上の見解で彼と争ふやうになり、昔のやうに足繁く往来しなくなつた。そのうちに、牧野さんは五反田の霞荘へ移り、小田原へ帰り、横須賀へ移り、再び霞荘へもどつた。それが去年の十一月のことだ。この期間牧野さんは昆虫採集にふけつてゐた。これも彼の設計による人生である。
横須賀では毬栗《いがぐり》頭にしてしまつた。兵隊の生活を見てゐるうちに同化されてやつたらしいが、飲み屋へ行くと中尉には間違はれるが、どうしても大尉には間違へられぬと笑つてゐた。これも彼の設計された人生であらう。
東京へ移つた報らせで私が訪れたのは去年の十一月の始めであつた。牧野さんは睡眠中で、出てきた奥さんがまたひどい神経衰弱で殴られ通しだと訴へた。何とかいふ面倒くさい名前の催眠剤を一々丁寧に桿《はかり》にかけて呑んでゐると聞いてゐたが、会つてみると、私と以前反目した時のやうに神経的な苛立たしさは見受けられず殆んど変りがないやうだつた。どうしても小説が書けないとこぼしてゐた。小説が書けなくなつたと言ひだしたのは最初に小田原へ越した時からで、その頃から牧野さんは数へるほどしか小説を書いてゐない。主として随筆と文芸時評(これは早稲田文学の再刊と同時にはじめて書きはじめたもので、自分でも文芸時評の書けることが分つたといつて大変よろこんでゐたものだ。そのころから小説が書けなくなつてゐたのである)その他雑文の類ひしか書いてゐないやうである。
今年になつて三度会つたが、私の会つてゐるうちは昔と全く変らない牧野さんであつたのである。
今度の夫婦別居のことが自殺の原因のやうに大袈裟な問題になり、新聞では奥さんがひどく悪者になつてゐるが、これは確かに不公平だ。第一に、なんといつても自殺の真の根幹をなすところは彼の生涯の文章が最も明白に語る通り、彼の一生の文学が自殺を約束された、自殺と一身同体の、文学だつたと見なければならない。
一八五五年一月二十五日巴里で一人の牧野さんが首をくくつて死んだ。ゲラル・ド・ネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルがそれである。彼の絶筆となつた小説はオレリヤ(別名・夢と人生)で、「夢は第二の人生である――」といふ書き出しに始まる彼の生と知性との宿命的な分裂を唄つた傑作だが、テオフィル・ゴオチエによれば、ネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルの死は「夢が人生を殺した」のであつた。牧野さんまた然り。二人はともにゲーテの熱読者であつたのは奇縁だが、牧野さんは恐らくネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルの名前すら知らずに死んだ。
その深夜ネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルは泥酔して行きつけの飲み屋を叩いた。飲み足りなかつたらしい。飲み屋は店を閉ぢたところだつたので、ネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルにねばられるのが厭だつたから戸を開けやうとしなかつた。「ええ、ままよ」そんなことを呟いて彼の遠距《とおざ》かる跫音《あしおと》がしたが、翌朝行人によつて、そ
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