人的であつた。そして最も俗人でなかつた。
 バイロンは極めて稚気愛すべき名誉心を持つた男で、ある時人が彼をルッソーに比較した。ところがロード・バイロンはルッソーが下男の子供であるといふ一点に於て彼と同等に論ぜられることがひどく不機嫌だつたといふ。ことほど左様に自己に憑かれ彼は「芝居ができなかつた」ことほど左様に純粋にして高潔な心の持主だつたとスタンダールは批評を加へてゐるのである。これと全く同じことを私は詩人牧野信一に就て言ふことができる。

 私は近年牧野さんと文学上の見解を異にしあまり往来しなかつた。私は詩人から小説家になつた。すくなくとも、ならうとしてゐた。私達は詩と小説の食ひ違ひで会へば必ず啀《いが》みあつた。然し牧野さんは理論を持たない人だから単に悪罵になるばかりでお互に気まづい思ひをするばかりだから、自然会ふことも少くなり、会つても最近は文学を談じたことは全くなかつた。それでも今年になつてから私は三度牧野さんを訪れた。牧野さんは普段と変らぬ元気だつた。むしろ奥さんが若干ヒステリイ気味で、牧野さんの居ない時を見はからつて、近頃彼の神経衰弱のひどいこと、酒に酔ふと乱暴で昨日も先日も椅子をふりあげて殴ぐられた、などと訴へられたのである。又周期的にやつてゐるな、と思つただけで、時間が経過するうちに再び健康と平和がもどるものだと思つてゐた。
 私が始めて牧野さんを知つたのは二十六歳の夏で、その時牧野さんは三十六だつた。その春私は自分のやつてゐた「青い馬」といふ同人雑誌に「風博士」といふのを書いた。私は斯様なファルスが一つの文学であることを確信はしてゐたが、日本に先例のすくない作品であり世評もわるく自己の文学上の信念に疑惑すら懐きはじめてゐた。ところが文藝春秋で牧野さんがこの作品を激賞した。私はむしろ唖然としたばかりで、自分の信念にひびの這入つた私は牧野さんを訪ねる勇気も手紙を書く元気もなく、とにかく自分を立て直すつもりで「黒谷村」といふのを書いたが、新聞の文芸時評で牧野さんは再び「黒谷村」を激賞してくれ、同時に遊びに来ないかといふ地図入りの手紙(この地図の出鱈目さつたらない、道の方向が全然逆であつた)を呉れた。その時はじめて牧野さんに会つたわけだが、当時彼は大森山王に一戸を構へ、丁度春陽堂から「文科」の発刊される時で、私は初対面の日「文科」に長篇を連載するやう慫慂《しようよう》を受け、いろいろ激励を受けた。私が文学の先輩に会つた最初の日である。
 私の知る限りでは文科時代が牧野さんの一番飲み歩いた時代で、私達のほかに河上徹太郎・中島健蔵・佐藤正彰・三好達治そのほか嘉村礒多が時々加はり一言も喋らず隅に坐つてゐたりした。酒も亦牧野さんの人生の一設計で、彼は「飲み助でなければならなかつた」けれども、飲み仲間では誰よりも酒に弱く、酒が時々きらひですらあつた。
 その頃も牧野さんの神経衰弱が始まつてゐた。牧野さんの神経衰弱は奥さんのヒステリイをともなふのが例で、普段はストア派の牧野さんが神経衰弱になると小説を創るにも苦吟するやうになり、従而《したがつて》彼の人生の設計を深刻化し立体化する必要にせまられる。彼は女に「もてたかつた」し、又「もてなければならなかつた」。そして「仇心をもやさなければならなかつた」。文学の苦吟が深まると、彼は奥さんの前ですら「芝居ができなくなり」むしろ決して大胆に恋愛をしたり情婦をつくつたりすることのできない彼は、内心の慾念を恰《あたか》も現に実行しつつあるかのやうな芝居すらしなければならなくなる。彼は意識上にとどまる慾念すらあざむくことができないのである。彼の文学が意識上に夢の人生を設計しつづけたことを思へば、意識上の姦淫が実人生に混線し混乱する度合ひは、俗世間の大悲劇に相当する錯雑を極めた難問に匹敵したかも知れないのだ。
 当時牧野さんは恰も某婦人(かりにA婦人とよぶ)と恋愛があるかのやうにその人生を仮構してしまつた。勿論「恋愛したかつた」のも事実であらうが、奥さんを棄ててまで恋愛に没頭できる人ではなく、彼は奥さんを愛してゐた。むしろ唯一人の味方であると信じてゐた。彼の場合、恋愛はできる「筈がない」のである。こんなことは退屈の生むちよつとした悪戯にすぎないので、はたから見てゐる私達にはなんでもないことなのだ。然し神経衰弱になると奥さんもヒステリイになる、争ひのあげく牧野さんは暴力を揮ふ、益々奥さんのヒステリイも強まるといふ状態で、余波をくらつて悪いくぢ[#「くぢ」に傍点]をひいたのが私だ。私は当時蒲田にゐてお互の住所も近かつたが、奥さんは牧野さんに殴られると私のところへ逃げてくる、私は却々《なかなか》応接に多忙で、夫婦喧嘩の仲裁くらゐ味気ないものもあるまいから大いにくさつてゐた。奥さんは私をとらへて牧野さん
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