牧野さんの死
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)悄気《しよげ》てゐた。

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(例)ネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ル
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 牧野さんの自殺の真相は彼の生涯の文章が最もよく語つてゐる。牧野さんの文学は自殺を約束したところの・自殺と一身同体の・文学だつた。
 牧野さんは理窟の言へない人で、自分の血族と血族にあらざる者とを常にただ次のやうな言葉によつて区別してゐた。「あれはほんとの蒼ざめた悲しさの分る人だよ」牧野さんが僕の小説をほめる言葉「ねえ、ほんとに、なんとも言へない蒼ざめた君の姿があの中にあるんだよ」彼が私に今にも縋りつきさうな情熱に燃えて語る時、それは「蒼ざめた悲しさ」に就て語る時のほかになかつた。「ゲーテはたいへんな大法螺吹きだ。なんにも知らないくせに学者ぶつた顔をしやうとひどい苦労をしてよ、わははははは。あいつは大変な助平爺いだ!」酔つてゲーテを語る時、牧野さんの生き生きとした時間がそこにもあつた。ゲーテがさうであつたやうに、風景のよい隠棲の部屋で、窓によつて森や小川のせせらぎにとりまかれながら、彼も静かに死ぬのではないかと考へたこともないではなかつた。

 牧野さんは貧乏だつたが、使ひ切れない分量の収入があるならとにかく、純文学の最大の流行作家程度の収入なら、恐らく同じ程度に貧乏だつたに違ひない。彼は宰相にならうとか人心を高めやうといふ野心や理想はなかつたが(作家のうちで最もなかつた)然し、「貧乏でなければならなかつた」。牧野さんは人生を夢に変へた作家である。彼の最大の夢は文学であり、我々にとつて人生と呼ばれるものが彼にとつては文学の従者となり、そのための特殊の設計を受けなければならなくなる。彼自身はいつぱし人生を生きてゐた気で、実は彼の文学を生き、特殊の設計を受けた人生をしかも自らは気附かずして生きてゐた。彼の自殺すら、自らは気附かざる「自己の文学」に「復帰」した使徒の行為であつたのだらう。彼の文学が設計した人生によれば、彼は貧困でなければならず、けれども明るくなければならない。そこで彼は或日銀座で泥酔し女房への土産には陸上競技の投槍を買ひ、これを担ひ高らかにかちどき[#「かちどき」に傍点]をあげながら我家の門をくぐるのである。明日の米はないのだ。細々と明日の米に生きるよりは、米を投槍に換えなければ「ならなかつた」のである。そして翌朝奥さんにどやされ、あはてふためいて友達の家に雑誌社に助力をもとめに駈けつけなければならないのである。友達に厭な顔をされ、てめえなぞとはもう絶交だなぞと言はれ、あるひは美事な義侠心にふれなければならなかつたのである。
 同じやうに、彼は「助平でなければならず(ゲーテのやうに)女房にかくれ仇な女によこしまな思ひを寄せなければならず」、然し彼は人に許された最も高度の純潔を持つた紳士であつた。彼が常に愛用した言葉をかりれば、ラ・マンチャの紳士のやうに、紳士であつた。
 設計しすぎた人生のために同時代の友人を失ひ、多感な青年ばかりが彼の親友になつた。同時代の人と言へば歌舞伎座の鈴木君ぐらゐのもので、そのほかの友人群に僕以上の年配の人は殆んどない。中戸川吉二氏と絶交の顛末なぞと言ふものは珍中の珍で、なんでも深夜泥酔のあげく、牧野さんは数名の青年を率ひ中戸川氏を叩き起したものらしい。その翌日私のところへ牧野さんから電話がきて、すぐ遊びに来てくれないかと言ふので駆けつけると、彼はひどく悄気《しよげ》てゐた。即ち中戸川氏から宛名に敬称すら記さない葉書がきて、以後絶交だ、とたつたそれだけ書いてあつたと言ふのだ。滑稽で莫迦々々しくて仕方がなかつた。芸術家はもつと図太く自分勝手に生きていい、それを容れない友達なんてこつちからつきあはない方がいいなぞと慰めると元気をとりもどして酔つたやうだが、一週間ぐらゐは怏々《おうおう》として楽しまなかつたやうである。同時代の友情に飢ゑてゐたのだ。牧野さんの稚気愛すべき生活は、爵位とか名門といふ世俗的な栄光に完全に批判のない尊敬の念を懐いてゐて、ひところ若い男爵の文学青年が彼のもとに出入りしてゐたが、すつかり堅くなつてつきあつてゐた。大学教授とか勲一等とか大将とか富豪とか、凡そ世俗の尊敬するところは彼のそつくり尊敬するところで、英雄は英雄であり従卒は従卒であつて一切の批判を容れる余地がないのである。神社仏閣を素通りせず必ず何事か祈りながら敬々《うやうや》しく頭を下げて通過するといふ風で、この人ほど世俗をそつくり肯定した生き方は最も世俗的な文盲人にあつてすら有り得ない場合のやうに思はれる。彼は最も俗
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