こから幾らも離れない路上に縊死をとげたネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルが発見された。

 牧野夫妻の別居の原因といふのは実はたあいもないことなのだ。特に私にはそれを言ふ権利がある。一昔前の夫婦喧嘩にぐあいの悪いくぢをひいた私は、今回の夫婦喧嘩に公平な裁判官でありうるのだ。
 例の通りの牧野さんの仮構された恋愛から出発する。相手をB婦人と名附ける。(宇野女史ではない)牧野さんが二年たつぷり殆んど小説の書けないことは前にも言つた。我々が普通さうであるやうに、心にもない小説を書きなぐることが、あの人にはできなかつた。夢の混乱が始まり、例の意識上の姦淫が実人生の問題になつてきた。全ては文学の道具で、たとひ肉体上の姦淫が行はれたにせよ、それによつて夫婦関係が不純になるやうな深刻なものではなかつたのである。それに牧野さんは最近インポテンツの傾向が次第に強くなつてゐた。そのことを私は彼に洩らされて知つてゐたが、恐らくそんなことも原因して、奥さんは恰も彼とB女史と深い関係ができたために疎外されてゐるやうに解釈したのではないだらうか? 私達の眼から見れば牧野さんの愛妻ぶりは天下の範とするに足り、また奥さんの貞淑さも天下の範とするに足り、たうてい第三者、ことに女性の介入を許さぬものが分つてゐたから、時々牧野さんが、「助平でなければならぬ」時があつても、この模範的な夫妻に最後の問題が起きやうなぞとは考へなかつた。
 牧野さんは気の弱い人で友達に我儘も言へなかつた。我儘一杯にふるまへたのはただ奥さんの前だけで、これを悪い例で言へば、夢と生のくひちがひを腕力に表現して鬱憤を晴らすことのできたのも唯一の味方とたのむ奥さんなればこそであつたが(これは皮肉でない)これをおぎなつて余りあるだけの愛妻のための精神的苦労(たとひ物質的にまで具現することは稀であつたと言へ)は我々の眼によく分つた。むしろ痛々しくもあつた。
 B婦人の問題なぞも牧野さんの神経衰弱とそれにともなふ奥さんのヒステリイが収まりさへすれば自然跡型もなく消えてしまふことなのだが、生憎悪い事件が起きた。一昔前の僕の役割を引受ける破目になつた某が、痴話喧嘩に深入りしすぎたのである。かういふことは感傷上の問題で非常に偶発的な性質を帯びてゐるから、大きな問題にしてはいけない。奥さんと某の失踪といふ事件が起きた。失踪といつても恋愛とか駈落ちといふ場合と違ふ。憂鬱至極で堪らないから、つひづるづるべつたり活動でも見て過してゐたといふことと全く同じ感傷的な出来事で、姦淫の要素は微塵もないし、奥さんの性格から、かういふ事件のなんでもなさは極めて明瞭に分るのである。むしろこれが問題になつて彼女は始めて慌てたらう。牧野さんの神経衰弱、奥さんのヒステリイといふ悪い条件の時でなかつたら、奥さんと某と二人きりでたとひ温泉へ行つたにしても決して問題にならないだけの習慣もあり間柄でもあつたのだ。実際の悪徳は何も犯してゐないにせよ、牧野さんの精神にひびく影響を考へたら、まづ理知分別ある男子なるところの某の方で充分注意すべきであつた。
 世人がこの問題を重大に見てゐるとすればそれは誤解で、牧野さん自身がこの問題を軽視してゐた。一度はたしかに参つたらうが、二人の潔白は信じきつてゐた。牧野さんはむしろ自分とB婦人とのあらぬ誤解が奥さんをかうまで錯乱させたことを羞ぢて、単身小田原へ帰つたのである。牧野さんは奥さんにも小田原へ帰つてもらひたかつた。
 奥さんは某との失踪が世間の問題になつたので、然し自分は潔白だから、自分の潔白を強めるためにも、今度の行動の責任を牧野信一の姦淫に負はすべきだと考へついたのであらう、益々牧野さんを憎んだ「ふり」をして小田原へ帰らなかつた。この際としては如何にも女らしい手口を用ひたわけで、恐らくそれでいいのではないかと私は考へてゐる。これだけの理由で奥さんを悪妻と言ふのは当らない。牧野さんが信じたやうに、そして、牧野さんが信じてゐたが故に、我々はむしろ彼女を良妻と呼んでいいのだらうと思ふのである。牧野さんの奥さんは小田原の牧野さんの母堂と仲がわるかつたが、これとて牧野さんが母堂と不和だつたから、仕方がなかつた。

 こんなことは実際どうでもいいことだ。これが死を早めたことにはなつても、自殺の根柢はこれではない。彼の夢が彼の「人生を殺した」のだ。
 それにしても小田原へ引上げてからの牧野さんの神経衰弱はひどかつたらしい。いつたい牧野さんは私達と話をしても、死や、況んや自殺に就て、かつて語つた例がない。牧野さんにしてみれば、生きることの難さに比べて死ほど容易な、それゆゑ厭な、妖怪じみた奴はなかつたのだらう。生きることには値打があるが、死には一文の値打もない。語る値打もなかつたのだ。私達が死を云々すると彼
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