はあらはに不興な渋面をつくつたのである。
その牧野さんが小田原へ引上げてからは(三月の終りだ)毎日死に就てのみ語つたといふ。牧野さんの小田原の住宅の隣りに古い馴染の瀬戸一弥君が住んでゐるが、毎日瀬戸君を訪ねて、死の話をする。孤独になると、死ぬ方法だけしか頭に浮んでこないといふ。突然手拭で自分の首をしめ、これでも死ねると独白を洩らしてゐる――すべてが普段の牧野さんに想像もできぬ錯乱だつた。彼は小田原へ越したことを誰にも知らさなかつた。小田原の友人達にすら、瀬戸君以外には絶対に知らさなかつた。そのくせ孤独が最も苦しく、なんとかして孤独をまぎらすために毎日瀬戸君を訪ね、いつたん家へ帰つたと思ふと忽ち又話し込みに戻つてくる、さういふことを日に何度となく繰返してゐたさうだ。
何分神経衰弱がひどく原稿が書けないので催眠薬を買ふ小遣ひがない。母堂に催眠薬を買つてくれと再々頼んだが、もしものことがあるのを怖れて(牧野さんの設計した人生流に言へば、ひどいけち[#「けち」に傍点]で)買つてくれない。これには参つたらしい。もう三日一睡もできないと瀬戸君に言つたこともあると言ふ。
東京へ行つてぜひ奥さんを連れてきてくれと瀬戸君に懇願し、突然母堂の肩に手をかけて、たのむからあれを呼び寄せてくれと叫んだりしたといふ。死の一週間前英雄君も暁星が休みになつたので小田原へ遊びに来た。その時の親父の喜びやうといつたらなかつたさうだ。そのくせ奥さんへの気兼ねからか、突然翌日東京へ戻してしまつた――
死ぬ前日梅焼酎を一升のんだ。
自殺の日、生憎瀬戸君が留守だつた。もし瀬戸君がゐたら、気がまぎれて死ななかつたらう。小田原へ来て以来、牧野さんは一番たまらないのが黄昏だと言つてゐたさうだ。夜になればいくらか落ちつくといふ。それは私も思ひ当る。ボードレエルにもさういふ詩があつたやうだ。黄昏の狂気のやうな寂寥は孤独人の最も堪えられぬ地獄の入口のやうな気がする。牧野さんは又、こんなことも瀬戸君に語つた。自分の今一番欲しいのは素直な若い女の友達だ、と。女中であつてすらいい。然し商売女ではいけない、と。
五時が来た。例の黄昏が近づいたのだ。母堂が海岸へ散歩にでかけやうとした。その二時間ほど前、牧野さんはピンポン台に紐を張り首を入れて自殺の真似をやつてゐたさうだ。牧野さんは突然母堂に縋りついて、どうか出かけないでくれ、俺を一人にしないでくれと懇願した。然し母堂は海岸へ散歩にでかけた。
帰つてきたのが五時半頃で、牧野さんの姿が見えない。台所で女中が夕飯の仕度をしてゐたのだが、牧野さんが納戸へはいつた姿は気附かなかつたのである。女中が部屋々々を探したあげく、納戸で英雄君のへこ帯を張り縊死した彼を見出した。
誰の責任でもなかつたのだ。牧野さん自身すら。「夢が人生を殺した」のだ。それがほんとの真相なのだ。よしんば死を早めた多少の事件があるにしても、彼の如き純粋な死に限つてそれは全く問題にならぬ。彼の死は暗い事件ですらない。彼の文学と死の必然的なそして純粋な関係を見るなら、自殺は牧野さんの祭典だつたかも知れない。私はさう思つた。なぜつて彼の死ほど物欲しさうでない死はないのだ。死ぬことは彼にはどうでもよかつたのだ。すべてはただ生きることに尽されてゐた。彼の「生」は「死」の暗さがいささかも隠されてゐない明るさによつて、却つて余りにも強く死の裏打ちを受けてゐた。生きることはただ生きることであるために、却つて死にみいられてゐたのだ。だから彼の死は自然で、劇的でなく、芝居気がなく、物欲しさうでないのだ。純粋な魂があくまでも生きつづけ、死をも尚生きつづけたのではないか! 生きたいための自殺は世の多くの自殺がさうであるが、牧野さんは自殺をも生きつづけたと言ふべきである。彼はつひに死をもなほ夢と共に生きつづけたのだ。明るい自殺よ! とても憂鬱な顔附をしてお通夜なぞしてゐられたものではなかつたので、私は谷丹三をそそのかし、通夜をぬけでて小田原の飲み屋へいつた。私達は泥酔した。
牧野さんは私達と酒をのむと、自分一人まつさきに酔つたあげく、(前にも述べたが彼は酒に弱かつた。そしてある時はてんで酔へず、ある時は又へべれけに酔つ払ふのが常だつた。そのへべれけに酔つた時にはきまつたやうに――)「おい、お前達はぬれ藁のやうにしめつぽく黙りこんでゐるぢやないか」と一夜に数回となくきめつける癖があつた。これはファウストの科白ださうだ。私達はお通夜をしりめ[#「しりめ」に傍点]に杯の数をあげながら、つまり今夜俺達は例のファウストの科白に復讐してゐるやうなものだなと言ひあつて呵々大笑したものである。そして翌朝まで帰らなかつた。
「ええ、ままよ」恐らく彼はさう呟いたに違ひない。「牧野さん[#「牧野さん」に傍点
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