もある、誰の目にも行方を知ることのできない筈の神の矢が」
「なるほど」
 花廼屋《はなのや》がうなった。すると新十郎は矢をとりあげて、
「落ちている矢は誰でも拾うことができるが、蛭川真弓を刺し殺した矢は、風雨にさらされた古物ではありませんでしたね。仕事場の箱の中から盗まれた一本ですよ。しかし、入口の戸も窓の戸もない土間に置かれた矢の箱から一本の矢を盗むのは、谷底へ降りて一本の矢を拾うよりもカンタンで面倒がないでしょう。誰でも盗むことができる」
 一同は谷から這いあがって、再び住宅の方へ戻ってきた。
「加治景村が居るそうですが、会ってみましょう」
 訊いてみると、彼の小屋は分った。すでに狂人かと思いのほか、案外にも物静かな落ちついた人物だった。さすがに今に残る品格があった。まだ五十前の筈だが、よほど年よりも老けて見えた。
「妻は子をつれて実家へ去りましたが、そのために私は世をすててここに住み、心の安静を得たようです。私の毎日は平穏で充ち足りています。昔の私にはなかったことです」
「なんによって生計を立てておられるのですか」
「お札やお守りを作っているのです。遠方から来る人が引き換えに食べ
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