かにはこの店には食う物がないよ」
「ここに居るうちに酔って吐いた人は?」
「そんなことまで一々分らないよ。外へ小便にでてのことを一々ついて行って見ているとでも思うのかい」
「誰か本を持ってた人は居なかったかね」
「書生さんはたいがい本をフトコロに入れてらアな。そんなことが一々覚えられるかい」
 ハゲ蛸は面倒になってカンシャクを起したらしいが、この重太郎の質問をきいて、遠山巡査はそれが要所をついているのに面くらッた。メガネの件は特に重大でなければならぬ。時田がこの店を去る時はメガネをかけていたのだ。
 時田の家はハゲ蛸と母里家の倍あって、母里家がちょうどマンナカぐらいである。非常に広い邸で、父母はすでに死んでるが祖父が、健全だ。時田は大学を卒業すると祖父が隠居して彼が家督をつぐはずで、それは来年のことだという。相当な財産家らしい。多くの女中はよくシツケがとどいていて、時田はすでに当主のように扱われているようだ。来客中で、それは由也であったが、洋風の大きな応接間へ現れた時田は女中の不用意な言葉を遠山巡査からきくとやや狼狽して、その事実を否定した。
「時田さんはメガネをかけてらッしゃると伺い
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