ぐ必要はなかった。彼は仏教の学者になって、一生研究に没入したいと思い、特に西洋へ渡って、日本ではまだ未開拓の梵語《ぼんご》やパリー語を学び、原典について究理したいと欲していたのだそうだ。しかし、思いがかなわぬせいか、彼は益々陰鬱で、彼の顔を見かけても、彼の言葉をきくことは全く有り得ないような有様であった。
 ある日のこと、光子が邸内を散歩していると、藤ダナの下にボンヤリ腰を下している英信を見かけた。近づいてみると、膝に本をのせてはいるが、本は閉じられたままで、別に勉強をしているところでもないようだから、光子はふと話しかけたい気持にかられた。
「風守さまは毎日どんな風に暮していらッしゃるのでしょうね。御退屈でしょうに」
 風守の暮しぶりについて好奇心を起すことは、この家の礼儀にかなうものではない。その慎むべきことを、重々承知でありながら、ふと訊かずにいられないほど、光子にとっては風守のことが重大な疑問になっていたのである。彼女は云ってしまってハッとしたが、意外にも、英信は彼に負わされた重大な義務が全く問題ではないかのようにケロリとして、
「あの方は御病気ですよ。助かる見込みはありません。
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