文彦様と敬称しなければならぬと云うのであった。子供の時からそう躾けられて育ったから、光子は弟を文彦様とあがめてそれが不自然だとは思わぬように習慣づけられているが、他人の目からは変テコであるに相違ない。もっとも、東京の学校へ入学してから分ったが、家によっては同じような習慣のところも少くないようだ。女の子は哀れなものだ。
ところが、実の父母たる土彦も、糸路もわが子を文彦様とよぶのである。同じ分家の家柄たる水彦のところでは木々彦が長子で上がないから、姉の場合は分らないが、父の水彦がわが子を木々彦様と呼びはしない。してみれば、多久家の分家に長男を様づけにするという定まった家法があるわけではないのだろう。万事洋風をまねたがるハイカラ時代ではあったが、水彦様が特にハイカラをとりいれている様子もほかに見当らないから、父母がわが子を文彦様とあがめるのは、なんとなく異様である。光子は幼時からの習慣で、自発的にその奇怪さにこだわることはなかったが、一枝の呪文をきくと、まず思い当るのはそれであった。
彼女は毎日せつなかった。なぜなら、父母が文彦様とよぶのをきくと、ハッとせざるを得なくなったし、それは日常
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