レはたしかに八十吉がデッキから戻ってきたのを聞いた筈だが」
 と訝かったのは清松である。
「あれはまだ宵のうちだ。九時半か十時ぐらいに相違ないが、金太が八十吉の落ちた声を聞いたてえのは朝方じゃアないか」
「とんでもない。オレがそれと入れ違いに大部屋へ戻った時は、だらしなくノビた奴も半分いたが、半分はまだバカ騒ぎの最中よ。九時半か、十時ごろだ」
「そのとき今村は大部屋にいたか」
「そこまでは気がつかねえや。なんしろバカ騒ぎの最中だし、半分は酔い倒れていやがるし、ロウソクは薄暗えや。オレは隅ですぐ寝ちまったからな」
「人が海に落ちたのを見ていながら。だから、お前はウスノロてんだ」
 と五十嵐。
「だからよ。オレにしてみりゃア、船長室へ降りた奴が教えに行ったと思ってらアな。ふんづかまって働かされちゃアつまらないから、早く寝たんだ」
 その時、思いつめて問いただしたのは清松の声であった。
「おキンさんにきくが、八十吉は十時ごろ一度戻ってきやしないか。イヤ。たしかに戻ったに相違ない」
「いいえ。戻って来ませんよ。戻って来たとすれば、私は寝ていて知らなかったが、翌る朝の様子では夜中に戻った様子はあ
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