がら、この真の暗闇の中で泥棒だのオイハギの殆どないのは、どういふわけだらう、私の関心の最大のこと、むしろ私の驚異がそれであつた。最低生活とは云へ、みんなともかく食へるといふことが、この平静な秩序を生んでゐるのだと思はざるを得なかつた。又、金を盗んでも、遊びといふものがないから、泥棒の要もないのだ。
働く者はみんな食へる、貧乏はない、といふことは此の如く死の如く馬鹿阿呆の如く平穏であることを銘記する必要がある。人間の幸福はそんなところにはない。泥棒し、人殺しをしても欲しいものが存在するところに人間の真実の生活があるのだ。
戦争中の日本人は最も平和な、恐らく日本二千何百年かの歴史のうちで最も平穏な日本人であつた。必ず食ふことができ、すべての者が働いて金を得ることができ、そして、たつた一人のオイハギすらもゐなかつた。夜は暗闇であり、巡査は殆どをらず、焼跡だらけで逃げれば捕まる恐れはなく、人間はみんな同じ服装をして特徴を見覚えられる恐れもなく、深夜の夜勤の帰りで不時の歩行が怪しまれず、懐中電燈の光すら後を追うてくる心配がない。あらゆる泥棒人殺しの跳梁する外部条件を完備してをりながら、殆ど一
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