ら、其の日の天候に就て腹蔵ない意見を述べてゐるのであつた。そして老婆の悪口と冷笑を一くさり見聞すると、私は丁寧に一礼して、心愉しい人のやうに帰りはぢめるのであつた。
 斯の状態が右と左に長く並行して、併し病院の一時間は愈々堪え難いものになつた。私達の神経は次第にもつれはぢめてゐた。
 辰夫は何事にも諦めよく深く自らを卑下してゐたが、自分の家族に就てだけは温い愛を信頼してゐた。いや、彼は決してそれを信じてはゐないのだが、信じやうとせずには此の冷い檻の中に生き続ける力が湧かないのである。彼は子供の頃から冷酷な家庭に育つたのだが、それでも矢張り家族の温情を空想せずには檻の中で生きられないものらしい。
 辰夫は初め此の空想が私にさとられることを甚だ怖れてゐた。ところが私は毎日その母を訪れない振りをして極めて下手に母の冷たさを誤魔化してゐるものだから、やがて辰夫は其れを見破り、唯一の慰めが裏切られたことに致命的な苦痛を感ぜずにはゐられなかつた。彼ほどの冷静なかつ聡明な人にして全く可笑しな話であるが、そこで彼は自分の恥づべき空想が私に見破られたことを焦慮して、今度は頻りに自分の母は何物にも増して自
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