る最中に、近所の横町で喧嘩がある。彼はやつぱり何気なく盃を置き静かに立つて横町の方へ歩いて行く。あの店、この店、隣の家から人が出て来て、忽ち彼を追ひ越して走つて行くが、それに釣られて一分一厘腰を浮かせることもなく、自分のペースで静かに歩いて行くのである。かうして彼が横町へつくと、すでに喧嘩は終つてゐる。時にはすでに人影の唯ひとつすら見当らぬこともあつた。けれども彼はその場所を突きとめ、静かに振りむいてオデンヤへ戻る。
かうしてこの冷静なる居士は折にふれて火事見物にでかけ喧嘩見物にでかけるけれども、火事を喧嘩を認めて帰つて来たことが殆んど無いにちかゝつた。それで果して彼の心は満されてゐるか? これは誰にも分らない。然しながら我々は次のやうに推定せざるを得ないのだ。彼の心が満されないとするならば、彼の足は走るであらう。すくなくとも、彼の足は、走りたい誘惑にかられるであらう。彼は顔の表情を誤魔化すことはできるにしても、足の表情を誤魔化すことは不可能だ。だから彼は心が満されてゐるのであらう。火事や喧嘩そのものを認めることは必ずしも彼の願望ではなかつたのだ。彼の夢と青春はそれに向つて歩くことを
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