命じるけれども、その実体をまのあたり認めるために急ぐことを命じはしない。だから彼は研究室に七年間も坐りつゞけてゐるけれども、学者や先生になりたいといふ願望は、我々の愚かな野心によつて、自分を彼に当てはめてはならぬであらう。つまり彼は限界のある執念と、アッサリした気質とを持つてゐたのだ。
だからこの冷静なる居士は酒場へ行つて、寂念モーローの先生が女を膝にのせたまゝ女を膝にのせた意味を忘却してのびてしまつてゐるやうなだらしない振舞ひは見せなかつた。
颯爽の先生に挑まれゝば躊躇なく乾盃に応じ、女と一応の話もし、凡そ物事に即した意味を忘れるといふことはない。至つて礼節正しいのである。そのうへ御婦人の申込を受けさへすれば、たちどころに立上つてダンスもするし、所望によつては巴里風の小唄をうたひ、決して唖ではないことを立派に証明するのであつた。
が、この三人の若い学者が、そこで如何なる目的によつてこの酒場へ通つてくるかといふことになると、誰にも意味が分らなかつた。彼等は資金が豊富とみえて、大概二日に一夜づゝは通つてくる。もう三年もつゞいてゐた。寂念モーローの先生と颯爽の先生にはそれ/″\ふさはしい令夫人があつたが、冷静なる居士は独身だつた。けれども冷静なる居士ですら、敢てどの御婦人に懸想してゐる如何なる素振りも示さなかつた。
かういふ御客は酒場の親爺にとつて親友の値打があつたけれども、そこに働く御婦人達にとつてはトンチンカンで意味をなさない。
この三人が現れると、番の女はそれ/″\覚悟をかためなければならないのである。一人の女は寂念モーロー先生の膝の上で二時間あまり死んだ時間を持たなければならないと覚悟をかためる。又ひとりは対欧策とか対支開発政策などゝいふ遠大な計画をたてつゞけにまくし立てられ間断なくチェリオとかプロジットとか叫びをあげ、時々は御愛想に笑ひ声のひとつぐらゐは立てなければならないと覚悟をかためる。さうして最後の一人の女は冷静なる居士にダンスを申込み椅子につまづいて靴をいためアラ平気よなどゝ凡そ心にもないことを言はなければならないと覚悟をかためる。――
さて、私が御紹介に及んだのは、今から約三四年前の――つまり一九三六、七年頃の銀座の夜の一角の話であつた。わづか四年足らずのうちに、時勢はまつたく一変した。
支那事変が起り、地球の裏側では二回目の欧洲戦乱が
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