風人録
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)婆羅門《ばらもん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)唯|徒《いたずら》に
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)みる/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 有りうべからざる奇怪のこと
この世には、とても有り得まいと思はれることが、往々有りうるのである。しかも奇妙なことには、さういふ事に限つて、さて実際行はれてみると、人々になんの注意も惹かず、不思議な思ひすら与へず、有耶無耶のうちに足跡もなく通過してしまふ。
先年、ある男が鉄道自殺をしようとして、驀進してきた貨物列車に向つて、走幅飛の要領で、猛烈なスピードをつけて飛びこんだ。これによつてみても、自殺は必ずしもセンチメンタルなものではない。スポーツのやうに勇壮で、生命と青春に溢れてゐる場合もあるのである。
ところが惜しいことに、この選手は失敗した。といふのは、あんまり勢ひが良すぎたので、線路を飛び越してしまつて、間一髪のところで、線路の左右位置を異にしたこの選手の生命を無事置き残して、列車は通過してしまつたのである。
この男は列車によつてゞはなく、列車を飛び越したことによつて、瘤や傷をつくつたけれども、生命に別状なく、且、この意外な結果にびつくりして、自殺を断念してしまつた。
かういふ稀有な出来事も実際有りうるのである。このことが実際起つた数年或ひは十数年以前に、我国のある戯曲家がかういふ稀有な場合を想像して(――恐らくこんなことが実際有り得ようなどゝは思はずに――)一幕の喜劇を創つてゐた。読者や観客も亦、こんなことが実際有り得ようとは夢にも思はず、作者の奇智を娯しんでゐたのであつた。
この奇抜な出来事は翌日の新聞に、落し物や寄附の記事とまぢつて、最も小さく報道された。さうして人々の注意も惹かず、尚悪いことには、かういふ事も有りうるといふ科学的役割を果すことなく、有耶無耶のうちに時の眼を素通りしてしまつたのである。
まつたくもつて新聞といふものは、その報道の理論的基礎が曖昧である。人殺しを五段抜きで報道すべきであるか、この不可思議な出来事を五段抜きで紹介すべきであるか、どちらが有益であるかといへば、これには多くの議論が必要な筈で、生憎我々の新聞の
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