報道精神には、さういふ理論的検討の基礎づけを見出すことが出来ないのである。

   二 寂念モーローの先生並に颯爽の先生のこと

 ところで、ある日、奇妙な出来事が起つた。
 とある坊主の大学校――といつては何のことやら理解の出来ない読者がゐるかも知れないが、仏教の宗派を細別すると何百何十になるのか坊主自身が知らないだけの数があり、大別して十幾つかの宗派があつて、これがみんな例外なしに各の大学校を持つてゐるのである。
 この大学校の先生は言ふまでもなくみんな坊主で(これは間違ひない)同時に学者(この方はお釈迦様だけが御存知だ)の筈なのである。
 さういふ先生の一人に、なにがし先生といつて、婆羅門《ばらもん》哲学の先生がゐた。齢はまだ三十七八で、見たところ格服《かっぷく》の良い紳士であるが、惜しいことには、いつも眠さうな顔をしてゐる。といふのは、概していつも宿酔《ふつかよい》気味で、実際睡眠が不足のせゐもあるのであつた。
 この先生はまつたくだらしのない呑み助であつた。婆羅門哲学の解説を早目に切上げて、生徒よりも一足先にモーローと街へ消えてしまふ。次の教室へ二十分程遅刻して現れる時は、目のまはりだけいくらか薄赤くして、講義にとりかゝる前に三十秒ぐらゐ椅子にもたれて、ぐつたりしてゐる。コップ酒を三杯ぐらゐ傾けて来たのであるが、この先生は酒の勢をかりて不当に颯爽とするやうな原始的な素質がない。いつもたゞ樽のやうに響きがなくて、寂念モーローとしてゐるのである。
 この大学校の学長先生や、その親分の管長猊下に愛妾があるとか、涼しい頭にソフト帽子をのせて待合などゝいふ所へもお経とは別の用事で出掛けるとか、とかく俗人共は高潔な人格にケチをつけて喜びたがるものではあるが、俗人共がケチをつけて溜飲を下げてゐるぐらゐであるから、誰もほんとに見たといふ者はなく、誰かゞほんとに見たといへば、誰かがマサカと思ふのである。だから高潔な人格は待合の門をくゞり、その尊厳は微動もしないといふ鉄則の下に置かれてゐる。
 このやうな高潔な人格が轡を並べて揃つてゐる大学校では、寂念モーローの先生が、たつたひとり、実にみすぼらしくて、惨めとも言ひやうがないほど気の毒なぐらゐ目立つのだつた。黄昏が来て、さてオデンヤでおもむろに傾けるのは兎に角として、婆羅門奥義の解説を早目に切上げてモーローと姿を消してしまふ。
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング