、我々の血潮の中にも習慣の中にも決して見当らぬものである。
 けれども、冷静なる居士はバスに乗る。さうして、四ツ目か五ツ目あたりの停留場で静かに降りる。もとより火の手が見えたわけではないのである。多分彼はやうやく諦めたのであらう。でなければ、四ツ目か五ツ目あたりの停留場が彼の夢と青春の極限に当るのかも知れない。
 バスを降りて、冷静なる居士はあたりを見廻す。それは火の手を探す為ではないらしい。多分見知らぬ街の様子と自分の立場を結び合せる何かの手がゝりを探してゐるのだ。さうして彼が降りた街には常に平和な人々と平和な営みがひろげられてゐた。子供達は店先の鋪道の上で遊び、オカミサンも亦店先の鋪道の上で喋つてゐる。このとき彼は、はじめて煙草を買ふ。さもなければ、リンゴを買ふ。五ツほどリンゴを入れた袋を抱へて、さうして彼は再びバスに乗るのである。便所から出てきたやうに、研究室の扉をあけて、七年間の自分の椅子に坐るために戻るのだ。
 かういふ彼の行動から判断しても、彼は案外アッサリした性質だといふことが判るのである。オデンヤで寂念モーローの先生の相手をつとめて唯|徒《いたずら》に徳利を林立させてゐる最中に、近所の横町で喧嘩がある。彼はやつぱり何気なく盃を置き静かに立つて横町の方へ歩いて行く。あの店、この店、隣の家から人が出て来て、忽ち彼を追ひ越して走つて行くが、それに釣られて一分一厘腰を浮かせることもなく、自分のペースで静かに歩いて行くのである。かうして彼が横町へつくと、すでに喧嘩は終つてゐる。時にはすでに人影の唯ひとつすら見当らぬこともあつた。けれども彼はその場所を突きとめ、静かに振りむいてオデンヤへ戻る。
 かうしてこの冷静なる居士は折にふれて火事見物にでかけ喧嘩見物にでかけるけれども、火事を喧嘩を認めて帰つて来たことが殆んど無いにちかゝつた。それで果して彼の心は満されてゐるか? これは誰にも分らない。然しながら我々は次のやうに推定せざるを得ないのだ。彼の心が満されないとするならば、彼の足は走るであらう。すくなくとも、彼の足は、走りたい誘惑にかられるであらう。彼は顔の表情を誤魔化すことはできるにしても、足の表情を誤魔化すことは不可能だ。だから彼は心が満されてゐるのであらう。火事や喧嘩そのものを認めることは必ずしも彼の願望ではなかつたのだ。彼の夢と青春はそれに向つて歩くことを
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