の先生も至つて喋らぬ生れつきではあつたけれども、然し尚その職業柄一日に数時間づゝ喋り暮してゐるに比べて、この冷静なる居士ときては一日に数へる程しか喋つてゐない。然し寂念モーローの先生ほど、だらしなくはないのである。どこかしらに青春と生気があつた。
たとへば今や自動車ポンプがサイレンを鳴らして学校の前を走つて行く。するとこの冷静なる居士は何気なく研究室の椅子を離れて、もとより同僚に一言半句物言ひかけることもなく、扉をあけ、扉をしめて、去つて行く。誰しも便所へ行つたのだらうと思ふことしか出来ないのである。
ところがこの冷静なる居士は、静かな足どりで階段を降り、便所の前も通りすぎて、石段をふみ、街の方へと歩いて行く。もしも我々があとをつけてゐるとすれば、さては煙草を買ひに行くのかとこの時やうやく気がつくのである。
校門をでると、静かに右へ曲る。けれども煙草屋の前を素通りして、折からバスが来たとすればバスに乗るし、生憎バスが来なければ、尚もまつすぐ歩くのである。こゝに至つて我々が、さてはと思ひ当ることには、冷静なる居士が校門をでゝ曲る時に何気なく行く手の空を見たことゝ、彼が格子を離れる直前に学校の門前を右へ走つた自動車ポンプのサイレンがきこえたことを結び合せて、案外これは火事見物におでかけのところだな、といふ思ひがけない一事に気付くのであつた。然しながら我々はこれを彼の歩きぶりから看抜《みぬ》いたのでなく、ほかの如何なる目的も想像しがたい理由によつて、かう考へてみるのであつた。
然し、この想像は正しかつた。否、多分、正しいのだらうと私は思ふ。
我々は日頃巷に自動車ポンプのサイレンを聞きなれてゐるが、その走り去つた方向に火の手を見たといふことがない。もし見たといふ人があれば、彼はまさしく神の特殊な恩寵を受け、奇蹟を行ふ人である。それ故普通我々はたとへ火の手が見えなくとも自動車ポンプの走り去つた方角に向つて二足三足走りかけてみることがないでもない。火の手に向つて走ることは今日も尚我々の宿命なのである。
けれども、火の手に向つて丁度手洗ひに赴くやうに静かに歩くといふことは、我々の習慣ではない。且又、見えない火の手に向つて黙々と歩くことも我々の習慣ではないし、たとへ自動車ポンプの走り去つた方角へ走るバスであるとはいへ、どことも見えぬ火元を指して静かにバスに乗りこむことは
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